笑顔の行方(完) [笑顔の行方]
2ヶ月前の8月16日、母が亡くなりました。
87歳でした。
母と共に過ごした1000日間、生活の中心を占めていた母がもう家にいないという事実に胸が塞がれて、これまでブログに書く気にもなれずにいました。あまりにも突然であったことと、今日に続く明日が来ることを疑わずに、母の死など想像もできなかった私にはショックが大きすぎたのです。けれど、ここに来てやっと書き留めておかなければ何も始まらないという気持ちになってきました。
8月1日の午後11時のことでした。
夜中に、2階の自分の部屋から下りて来たことなどなかった母が、階段から転げ落ちてしまいました。ものすごい音に何事かと思い、家族がそれぞれの部屋から駆けつけた時には2、3分間意識はなかったものの、すぐに手を握り返すなどしっかりした反応を見せていました。救急車を呼んだことに対しても、「そんなオーバーなことをして」と非難めいた言葉を口にするほどだったので、この時点では、大したことはないと思っていました。最悪、寝たきりの状態になったとしても、やがては回復してわが家に戻って来ると信じて疑いませんでした。
ところが搬送先の新宿区内の病院では手に負えずに、板橋の帝京大病院に移送されることになりました。2日未明のことですが、この時点で今日、明日の命と宣告されました。
検査の結果、くも膜下出血、首の骨折、お腹からの大量出血、骨盤の骨折等々、どれを取っても致命的で助かったことが奇跡だとも説明されました。
集中治療室で初めて母に対面した時には、既に生命維持装置がつけられていて、私や2人の弟達家族の呼びかけにも反応することはありませんでした。
輸血しても輸血してもお腹からの出血がひどくて、血圧が50/60前後と低すぎたために、まず出血を止めるのが優先課題でした。止血のために開腹手術をすることになりましたが、高齢であることも加えて手術に耐えられるか危ぶまれる状態でした。
手術は無事に終わりましたが、止血のための手術はそれから10日足らずの間に3回も行われ、母はそれを乗り切ってくれました。
手術が終わる度ごとに、ずっと病院に詰めていた私の家族と弟達一家は束の間の喜びで胸をなでおろしましたが、医師の見立ては残酷なものでした。
止血はできても血圧が下がっていた時期に、脳に血液がいかなくなったために、脳は植物人間に近い状態だというのです。開腹手術の折に腸に大きなガンも見つかりましたが、そのことが問題にならないほど、母の全身に及んだケガはひどかったのです。
脳の機能低下と鎮静剤を投与しているために、患者本人の苦痛は抑えられているとの説明には救われましたが、呼吸は荒く、時に激しく痙攣する姿を目にすると、生きてほしいと願いながら、「もう、頑張らないでいいから」と語りかけずにはいられませんでした。
そして、8月16日午後2時16分、母は家族全員に看取られながらその生涯を閉じました。
母の記事のタイトルになった「笑顔の行方」のことですが、これを書き始めた頃にはすでに母の笑顔は戻っていたと思います。昔のように明るい笑顔ではなく、自信のなさそうな遠慮がちの笑顔ですが、わが家で暮らすようになってからは、どんよりした暗い顔を見せることもなくりました。
その一方で、毎日の介護に追われている私の方には笑顔がなくなって、母の顔を見たくもなくなった時期もありました。
母のことを大切に思っていても、毎日のこととなると、介護はきれい事だけではすまないという現実にも直面したのです。
けれど、今となっては母の意に沿った介護ができたこと、親孝行ができたことはよかったと思っています。娘として母の最期の日々を共に過ごせたことも幸せでした。
母が亡くなって気づいたことがあります。
私の家で暮らすようになってからは、私がいないと生きていけないというほどの母だったので、私自身も母を守って、支えて生活していると自負していました。
それは大間違いでした。
支えているつもりが支えられていたのだと、守っているつもりが守られていたのだと実感させられました。
母がいてくれたから、家事や塾や家庭教師の仕事、その他諸々の事で頑張れたのだと思いました。大変だったからこそエネルギーも出たのだと思います。
半分は仕事に復帰できても、体の不調を繰り返す息子のことを母が言葉には出さなくても心配してくれたことも、思い返してみれば慰めになっていました。
晩年は感情が乏しくなり、何事にも意欲をなくしていた母ですが、その一生は娘の私からみても立派なものでした。
父が交通事故で亡くなって、この9月で50回忌を迎えましたが、私達一家と弟2人の家族がそれぞれ仲良く暮らせる土台を作ってくれたのは母です。
6年前に、母に頼み込んで書いてもらった自分史「我が子とともに」を自費出版しましたが、まさに母の一生は私達姉弟3人のためのものでした。無理をしていたわけではなく、そうしたかったからしたのであって、それが母の生き方だったのだと思います。
弟が葬儀の席で言った言葉も残っています。
「母の遺影を探してアルバムを見ていたら、どれもその時々をまじめに一生懸命に生きてきた母の姿が浮かび上がってきました」
『「生き方」は「逝き方」、人は得てして生き様を凝縮するように亡くなる時を迎える』とは、新聞で読んだ医師の言葉ですが、その言葉どおりの母の「逝き方」だったと思います。
最後の最後になって、昔ながらの頑張りを見せてくれたからです。
医師も驚いていましたが、4回もの手術に耐えられたのは、母の生をあきらめない強い意志の現れだったのだと思います。
自分が階段から落ちたことも認識していなかったくらいですから、まして自分が死ぬなど夢にも思っていなかったでしょう。まだまだ私と一緒に生活したかったのだと思います。
それでも遺された私達は母の「生き方」と「逝き方」を心に刻み付け、母の人生をいとおしく思いながらこれからも生きていきたいと思っています。
笑顔の行方(7) [笑顔の行方]
実家の母が我が家で暮らすようになってから、まもなく1年近くになります。
先月末には、弟一家と暮らすつもりで建てた家も完成し、弟一家は仮住まいの家から新居に引っ越しをしました。
もちろん、仮住まいの家やコンテナに置いてあった母の家財道具一式も新居に運ばれ、あとは母がそこに戻れば、バリアフリーの住まいでの快適な生活が待っているはずでした。
ところが、以前にも書いたように、母はもうそこには戻りません。
自分でも資金を出して建てた新居なのに、住むどころか、見に行くことさえ出来るかどうかわからない状況です。
行ってみたい気持ちはあるようですが、我が家から車で往復2時間かかるその距離を、体(腰)が持ちこたえられかどうか自信がないのです。
この5月の連休明けにはぎっくり腰になって、トイレで用だけは足せたものの、それから2ヶ月間は、お風呂に入ることも、階下に降りてくることも出来ませんでした。
これまでなら入院ということになったのでしょうが、今は私が介護出来るので、それは避けることが出来たのです。
現在の母はというと、外見的には元通りに回復して、元気に暮らしています。
週に2回、入浴介助に来てくれるヘルパーさんも、浴室でもしっかりしていると言うし、時々訪れる2組の弟夫婦も「元気そうだね」と言って帰って行きます。
ところが母は、「元気そう」と言われるのは不本意のようで、うつ病もほとんど治っているようなのに、かかりつけ医や薬剤師に何回言われても、抗うつ薬や睡眠薬の量を減らそうとはしません。
今日の本題は「受け入れる」ということですが、母が元気になったのは、私達家族が母を受け入れたからだと思っています。
ところが、昔とは人格まで変わってしまったかのように思える母を、そのままの形で受け入れることはかなり大変なことです。
受け入れようとすればするほど、こちらのストレスも大きくなっていくからです。
365日休みがないのも、どこに出掛けるにしても三度の食事の用意は欠かせないことも、歯が悪いだけでなく食べ物の好みも偏っているので、店屋物や市販の惣菜では食べられないというのも、大変なところです。
それでも母は腰が悪いわけだし、私が自分自身の体を使って介護することは何ということはありません。(多少、やせ我慢も入っていますが…)
日常でストレスを感じるのは、電話やチャイムが鳴る度に2階から下りて来て、「誰からだったの?」と聞かれたり、介護の仕事をしている息子の出勤時間をその都度質問されたり、通常母のために別の献立で作っているのに、揚げ物などをしているのを見ると「私の分は?」と聞いてくることです。
多くの場合は母に関係がないことで、いちいち説明するのも面倒なのですが、狭い世界で生きている母にはそれしか関心事がないのだと思い、相手をしています。
また、うるさいほどに元気だというのも、考えようによってはいいことだと思っています。
母がうるさくなくなったら、それこそ体がそれだけ弱っているということだからです。
そんな生活の中で、どうしても母を受け入れられないことがあります。
それは、身体だけでなく私の精神の自由も奪うことです。
日中時間が空いて私がパソコンに向かっている時、極々稀に友達と電話で話している時、最近読んでいて楽しくなってきた英語の本を読んでいる時など、私が自分自身の時間を楽しんでいる時に、必ずと言っていいほど、母は邪魔しに来ます。
「天気が悪くなってきたけど、洗濯物は取り入れなくていいの」
「お風呂の窓は閉めたの」
「明日のパンは買ってあるの」
「(夜勤の時も自分で起きるてくる息子について)○○君は起こさないでいいの」(先回りして起こすことは、息子を不機嫌にさせるだけなのです…)
「6時になるけど、食事の支度をしないで、まだパソコンの前に座っていていいの」
これらの言葉を、2階から何度も何度も下りて来て私に言うのです。
30年以上、主婦をしている私にはそれらの言葉は言われたくない言葉です。
どうやら、私が何かに熱中していると、自分が疎外されているようで落ち着かなくなるらしいのです。
それを本人に伝えたら、母自身も認めていました。
けれど私はといえば、これまでのように夫と一緒に出歩くことも、友達と映画に行くことも、親しい仲間内での誘いもほとんど断っています。
唯一、仕事で出掛ける時だけはあきらめているようですが、私が外出することを母が極端にいやがるからです。
それを押して出掛けようとしても、行く前に何度も何度も不安ばかりを口にされると、外出したい気持ちが萎えてしまうということもあります。
そういう訳で、私が母を受け入れ、母に合わせている部分がかなり多いと思っています。
だから、せめて、日中に時間が空いた時くらいは好きにさせてというのが母に対しての本音です。
私の精神の自由までも束縛しようとする母を、容易に受け入れることは出来ません。
けれど、それで、私が母を受け入れていないかというと、そうではないと思っています。私なりの解釈になりますが、「その人のそのままを受け入れる」ということは、人格をもった相手をそのまま受け入れるということで、言動の全てを受け入れるということではない気がします。
もし、ここで私が、精神の自由さえも束縛する母のことも認めて、母の言いなりになってしまったら、私が私でいられなくなるし、ストレスから心の病気になってしまうことだって考えられます。
ですから、私はその度ごとに、「やってほしいことがあるなら何でもするし、介護については何とも思ってないけど、精神の自由だけは奪わないで!」ときつく言います。
母がまだ実家にいた時に、「今は1週間に1回来るだけだからやさしくできるけど、万が一、これが毎日となったらそうはいかないからね」と話したことがありました。
その万が一が現実になってしまいましたが、私は大方は母にやさしく接しているつもりです。
そのことについては一度、母に尋ねたことがありました。
それに対して、母は「この家ではすごく大切にしてもらっている。時々あなたに怒鳴られながらもね」と笑いながら答えていました。
私は、夜寝る時にはいつも、母の部屋をそっとのぞいて、寝息を確認してから休むことにしています。
昼間はちょっときついと感じることがあっても、母の安らかな寝顔を見るとそれで安心して、その寝顔がいつまでも見られることを願っています。
繰り返しになりますが、「受け入れる」ということは、相手の言動に受け入れられない部分があることを自分でも認めながら、それでも相手を大切に思ったり、愛しく思ったりすることではないかと思います。
相手の全てを受け入れていたら、受け入れる側は苦しくなってしまうばかりです。
(今回のブログはちょっとグチっぽくなってしまいました)
笑顔の行方(6) [笑顔の行方]
母が我が家で暮らすようになってから約半年が経ちました。
母が私の家に来た理由は、40年以上住んでいた母の家が東京都の道路計画にひっかかって一時的な立ち退きを迫られ、取り壊されることになったことが発端でした。
必然的に、母は一緒に住んでいた弟一家と共に仮住まいの住居に引っ越す羽目になり、その無理がたたって腰の持病が悪化して、病院に入院することになったのです。
その後は、これ以上の回復は望めないとの医師の判断で退院を余儀なくされ、日中、家人のいない自宅で生活するのは不可能ということで、比較的に家にいることの多い私が、母の介護を引き受けることにしたのです。
すでに道路工事も終わって、先月から母の家は新築工事が始まりました。
新しい家が完成するのは9月ですが、母が暮らしやすいようにバリアフリーの設計にしてあって、母の部屋も十分な広さで確保されることになっていました。
ところが、9月になって新居が出来上がっても、母は自分が建てた家には帰らずに、私の家にずっといることが、2月の時点で決まりました。
当初、母が帰るつもりでいたようですが、私はこのまま私の家が母の終の棲家になるのではないかと思っていました。
歳を取ったら、どこに住むか、どんな家に住むかより、誰と一緒に住むかを最優先に考えたほうがいいと思っていたからです。
実の娘と暮らすのが一番いいとは、一般的にもよく言われていることでもあります。
母が私の家で暮らすようになって、母のプラス点を数えてみました。
①自宅にいた時には、弟一家が住んでいた2階にはもう5年近くも上って行くこともなかったのに、今では1日に10回以上も、2階と1階を上り下りするようになった。(今はぎっくり腰になってしまったので、それも出来ませんが…)
②私と一緒に近くを散歩するようになって、以前と同じように花の美しさに目が向くようになった。
③合わなくなった入れ歯を調整してもらうために、近くの歯医者さんに通えた。
④かかりつけ医を、自宅近辺から私が住んでいる町の医院に変更し、同時に健康診断も受けられて、腰以外に問題ないことがわかった。(うつ病の症状がまだ少し残ってはいるものの…)
⑤その結果、血圧も正常、コレステロールも高くないことがわかり、2種類の薬を減らすことが出来た。
⑥よく食べるようになったので、体重も3キロほど増えた。
⑦かかりつけ医が変わったことで、お嫁さんに1時間以上もかけて薬を持ってきてもらう必要がなくなり、私が取りに行けるようになったんもで気をもまなくてもすむようになった。
⑧住民票も移さずに、介護保険が適用されることになったのでヘルパーさんに入浴介助を頼めるようになった。
⑨1ヶ月に1度の割合で、美容院にも通えるようになった。
⑩体の状態が悪い時でも、三度の食事が確保されている。食事の時間帯も母に合っている。
⑪朝から晩まで一人で不安な時間を過ごしていたのに、週に2、3回、私が仕事で出かけることはあっても、数時間で帰って来るので、心細さが少なくなった。
⑫我が家はどの部屋も出入りが自由なので、比較的に疎外感を持たないですむ。
⑬実の娘の私にはわがままや、言いたいことがいえる。
⑭私の夫や息子も母にやさしいので、居心地は悪くないと思われる。
⑮身内にさえ会いたいと思わなかったのに、息子たちやお嫁さん、孫娘に会うことを拒まなくなった。
⑯「スイマセン」より「ありがとう」の回数が増えた。
⑰そして、極めつけは、明るくなったこと。自分の形勢が悪くなった時など、ぺろっと舌を出すなど、昔のひょうきんな面が出てきたことなど。
上記に書いたことが、私から見た母のプラス点ですが、母は自分自身ではこれらのことが認められずに、自分のマイナス点ばかりをあげつらいます。
息子にも、「おばあちゃんは上の方の高い所ばかり見ていないで、目の前の自分のプラス点を数えるようにしたらいいのに」と言われてしまいました。
不登校や、ひきこもりのあなたたちも、母と同じように自分のマイナス点ばかりを数えてはいませんか。
1年前には出来なかったのに出来るようになったことを、昨日とは少し違う自分のことを、または明日から変わろうと思っている自分のことを、プラスの方向から見つめ直してみてはどうでしょう。
笑顔の行方(5) [笑顔の行方]
不安と恐れ
母が私の家で暮らすようになって丸3ヶ月が経ちました。
今は暗い顔を見せることも少なくなりましたが、当初は、不安と心配事でいっぱいでした。
階段の上り下りは案ずるより産むが易しで、1日に何度となく私の様子を窺いに下りて来るまでになりましたが、次の心配事は入浴についてでした。
自宅の湯船よりもわが家のそれは深いので、果たして入れるかどうかということが、不安でたまらなかったようです。
また、浴室には介護用の手すりもついていなかったので、その心配もありました。
暖房のない浴室の寒さに耐える自信もありませんでした。
入浴介助のヘルパーさんが、きつい人だったらどうしよう、と不安でたまらなかったのも事実です。
湯船の深さについては、浴槽内に福祉用具の「浴槽台」を設置することで解決しました。これは踏み台としても使えるし、浴槽内ではイスとしても利用できるので便利でした。
手すりは、福祉用具の浴槽用手すりを介護業者に取り付けてもらいました。
シャワーチェアーも、これまでの背もたれのないものから、背もたれとひじかけがついたものに買い換えました。
浴室の寒さは、給湯器が壊れたこともあって、エアコンとセットになっている給湯器を購入しました。
次に、服を着たままで、風呂に入る練習をしました。
母の身長や姿勢に、浴槽用手すりや浴槽台の高さや位置が合っているか、手すりを使って実際に湯船に入ることが出来るか、風呂場の暖房はどの程度効くのかなど等、ヘルパーさんが来てくれるまでに確かめておきました。
口で説明するだけでなく、実際に母自身にも試してもらって、私も大丈夫だと思ったのですが、それでも母の不安は消えません。
今でも、ヘルパーさんが入浴介助に来てくれる日は、落ち着きがなくて、風呂が沸いているか、福祉用具のセットは出来ているか、浴室暖房はつけてあるかなど、しつこいくらいに私に尋ねます。
こんな時には、数々の不安を抱えている生徒と母の姿がだぶります。
ある中学受験の生徒は、受験日前日になって、不安が昂じて電話で私に助けを求めて来ました。
何が不安なのか書き出してみるように伝えると、40個もありました。
「今晩、眠れなかったらどうしよう」「電車が遅れたらどうしよう」「試験会場でお腹が痛くなったらどうしよう」「隣の席の子が、うるさい子だったら、落ち着いて試験を受けられる自信がない」などと、次から次へと不安を並べたてました。
その一つ一つに対して、私が解決策を示してやると、生徒は「なんだ、そうなのか」と安心したようです。
“恐れ”についてですが、これも母を見ていて、不登校の生徒に通じるものがあると思いました。
母はあることに接すると、気持ちがざわつくのです。ざわつくだけでなく、恐れも感じるようで、それは自分でもどうにもならない感情のようです。
その場の空気や雰囲気が怖くて、じっとしていられなくなるのです。
不登校の生徒が、直接の原因は人であっても、学校の建物や教室や廊下までが恐怖の対象になってしまい、思い出すだけでも気持ちがざわついてしまうのと似ているような気がします。
母の場合は、高齢だしエネルギーもないので、これから避ける方法を考えたいと思っています。
不登校の生徒の場合は、しばらくは避けているにしても、誰かの力を借りながら、やがては自分なりの道を見つけて歩き出してほしいと思います。
人生は1本道ではありません。歩き始めた道がだめなら別の道を行けばいいし、回り道や寄り道をしてもいいのですから。
笑顔の行方(4) [笑顔の行方]
笑顔の正月
ここ数年のお正月は、私一人で実家の母に新年の挨拶に行くというより、食事づくりや買い物など、通常どおりの介護に通っていたというのが実際のところでした。
一緒に住んでいる次男一家との接触もほとんどないままの、母にとっては孤独なお正月だったと想像していましたが、今年は昔に戻ったような賑やかなお正月でした。
元旦に、私の弟たちの家族が我が家に勢揃いしたからです。総勢10人でした。
母がうつ病になってからというもの、他人はもちろんのこと、自分の兄弟たちにも会いたがらなくなって、それは母とは同居していない長男夫婦にも当てはまるものでした。
ところが、大晦日になって、次男一家が年賀の挨拶に来るというのを伝えると、長男夫婦も呼んでほしいと、母の方から言ってきたのです。
これを聞いて、私はうれしくなりました。
長男(私にとってはすぐ下の弟)が母のことを大切に思っていて、母の顔を見たいということはわかっていたからです。
当日は、弟たちが来る前にも、母は2階の自分の部屋から何度も何度も下に降りて来ていました。
最近は、「ちょっと、あなたの顔を見に来たの」とか「偵察に来たの」とか言って、1階に降りて来る回数が多くなっていた母でしたが、いつもの比ではありませんでした。
とても、腰に持病がある人とは思えないくらいです。
新年会は夕方から始まりました。
居間の畳に坐れない母は、一人だけ台所のテーブルに向かって、おせち料理も煮物くらいしか食べられませんでしたが、やわらかい笑顔を見せていました。
みんながそれぞれに母のことを気にかけて、入れ替わり立ち代わりに母の相手をしたからだと思います。
そんな母の様子を見て、「これまでと、顔つきが全く違うね」と、長男夫婦が安心したように言いました。
それは毎日、一緒に暮らしている私や家族も感じていることでした。
私はつくづく母を引き取ってよかったと思いました。
週に1度、介護に通って母の暗い顔を見るより、介護は毎日になっても、母の笑顔を時々でも見られるほうが、精神的に楽だからです。
親自身がいくら充実した生活をしていても、自分の子どもが暗い顔をしていたり、つらい思いをしていたら、親もしあわせにはなれないのと同じように、自分の親が暗い顔をしていたら、子どももしあわせにはなれません。
母の笑顔を見ることが、私の喜びにもなることを、このお正月で実感しました。
それでは、どうして、時々でも母に笑顔が戻ったのでしょうか。
それは、母と一緒に暮らし始めた私や夫や息子が、特別に何かをしたからではないと思います。
母自身が、「私はここにいていいんだ」というものを、感じ取ったからだと思います。
今でも、母の心の中には不安が残っているし、不満もあるかもしれません。
けれど、今のわが家は母にとっては安心できる場所になりつつあるのではないかと、私は思っています。
学校に行けない、社会に出られないというのも、そこにその子どもや若者が、「自分はここにいていいのだ」と思えないからだと思います。
この頃、母は前ほど自分のことを否定しなくなりましたが、自己肯定感を持てるほどには回復していません。
私は、母が今以上によくなることをあえて望まず、現在の母をそのまま認めて、無理をせずに、淡々と、そして自分の気持ちに素直になって、母と接していこうと思っています。
それで、母がよくなっていけばうれしいし、よくならなくても、大切で、愛しい母であることに変わりはありません。
不登校やひきこもりの子どもたちにとっても、「そのままのあなたで、ここにいていいんだよ」と思える、安心できる学校や、社会になるといいですね。
笑顔の行方(3) [笑顔の行方]
文句が会話
母が私の家で暮らすようになって1週間が経ったときのことでした。それまで、毎食ごとに私が2階の母の部屋まで運んでいたのですが、食後の歯磨きには1階の洗面所まで下りて来られるようになっていたので、昼食は1階で食べることにしました。
見た目はずいぶん回復しているように見えたので、私がそう言うと、「階段だってやっとのことで上り下りしているだけで、まるでだめなのよ」と、いつもながらの否定的な言葉が返ってくるだけでしたが、とにかく私と一緒に食べられるようになったのです。
母に合わせたやわらかめに炊いたご飯と、味噌汁、やわらかいのを通り越してグチャグチャに茹でたほうれんそうのおひたし、生協の豆腐だんご、それに皮をむき細かく刻んだトマト、という簡単な献立でした。
食べ始めた途端、母の文句が始まりました。
母も知っている私の友人の名前を出して、「○○さんや、××さんの家は、もっときれいに片付いているんでしょ」
「冷蔵庫の扉に、ずいぶんベタベタとものを貼り付けているのね」
「この味噌汁、ちょっと濃すぎない」など等、次から次へと、私への非難と受け取れる言葉を口にしたのです。
これまで母と一緒に住んでいた弟の、「お母さんに満足感を与えるの至難の業」という言葉も思い浮かびました。(うつ病になる前の母はこうではなかったのですが、人が変わってしまったのです)
長年、自分ひとりで気ままに昼食をとっていた私は、他人に対してなら聞き流せるはずのそれらの言葉に、いちいち反応してしまいました。
掃除が大好きとは言えないまでも、それなりには片付けているつもりだったし、冷蔵庫の貼りものも必要だからそうしているのであって、味噌汁に至っては、薄味好みの私がそれ以上薄味にしたら味がなくなってしまうほどの薄さにしているのに、「まだ、文句があるの」という感じでした。
昼食が終わった後はしばらく、新聞を読みながら食休みをするのがこれまでの私の習慣でしたが、母はすぐに立って片付けることを要求します。
母が家に来る前に、週に1度、実家に通っているときもそうでした。
私が片付け始めないと、母が落ち着かなくなって、イライラしてくるのが黙っていてもわかるので、私もすぐ片付けることにしていたのです。
私なりに母に合わせているつもりでした。
腰の悪い母が、イスに坐っていられる持久時間は1時間弱なので、やがて母は自分の部屋に引き上げていきましたが、私の気持ちは穏やかではありませんでした。
その日は、介護の仕事をしている息子がまだ家にいたので、早速、母に対する不満を息子に聞いてもらいました。
「おばあちゃんは、家にずっと引きこもっているから、話題がないんだよ。そうやって、お母さんに文句を言うのが会話なんじゃないの」
“そうか、そうなんだ”と、私は息子の言葉にすっかり納得してしまいました。
同時に、母に対する腹立ちがスーッと消えていきました。
文句を会話と考えたら、いちいちそれに反応して、腹を立てることもないと思ったからです。
また、私に遠慮しないで自由にものが言えるというのも、いいことだと思いました。
ところで、不登校やひきこもりのあなたは、母と同じように会話のネタがなくて、親の言葉や態度に文句を言ったり、難くせをつけたり、突っかかったりしていませんか。
それが甘えの範囲内なら仕方がないにしても、威張ったり、命令したり、親を奴隷のようにこき使うことがあるとしたら、それは今すぐにでもやめてほしいと思います。
そんなことを続けていると、あなたは自分自身をさらに追い込み、暗いトンネルの中から出られなくなると思うからです。
また、不登校やひきこもりの子どもをもつお父さん、お母さんも、いくら子どもが悩んだり、苦しんだりしているからと言って、子どもに暴力を振るわれたり、奴隷のようにこき使われることがあるとしたら、そんな状況は長引かせないでください。
その場に留まらないで、逃げ出すか、勇気を出して、誰かに助けを求めていただきたいと願わずにはいられません。
笑顔の行方(2) [笑顔の行方]
「イエス」と「ノー」をはっきりさせる
母が私の家で暮らすようになって1ヶ月が過ぎようとしています。
母は今、2階で生活していますが、当初は「家庭塾」としても使っている1階の居間が母の部屋になるはずでした。
家の中を歩くときでさえも杖が必要な母が、2階で生活できるとは思えなかったし、それ以上に、トイレは洋式のウォッシュレットと決めている母が、1階の和式のトイレで用を足すことは不可能だと思ったからです。
段差のある和式のトイレを、段差をなくして洋式のウオシュレットに改修してもらうことも考えました。けれど、工事が大掛かりになって費用がかさむ上に、遅くても来年の夏頃には自宅に帰る予定の母のために、今この時期にトイレの改修工事を行うことにためらいを感じたのも事実でした。
それでも、母を自宅に呼ぶためには必要なことと、すぐに気持ちを切り替えて、業者に見積もりを依頼しました。
ところがどんなに急いでも、母が退院する日までに工事を完了することは無理だと言われてしまいました。
その解決策として、これまで母を担当してくれていたケアマネージャーのAさんが、トイレの改修工事が終わるまで、ポータブルのウオシュレットを購入して、使用してはどうかと提案してくれました。
私自身も、そうしてほしいと思いました。
歯の悪い母のために、家族と違う献立を考えたり、3度の食事を用意することはできるにしても、仕事も持っている私が、母の夜中のトイレに付き合うことに対しては、「ノー」だったからです。
私自身の体を守るためにも、そうしてほしいと母に頼みました。
ところが、母ははっきりと「ノー」と言ったのです。
さらに、段差のある和式のトイレを洋式トイレに改修するなど、そんな大変なことはしなくてもいいと言うのです。
その結果、1階ではなく、ウオシュレットのある2階の、これまで私が書斎として使っていた部屋が、母の居住空間になったのです。
階段が上れるかどうかが、まず第一の課題でした。
ここ4年近く、私が母の介護に実家に通うようになって以来、弟一家が住む2階には、一度も上ったことがなかったからです。
結果は上々でした。階段の手すりにつかまりながら、階段を昇ることができたからです。
夜中に、私の介助がなくても1人でトイレにも行けたし、それにも増してよかったのは、母の部屋が2階になったことで、私と母の間に程よい距離感が生まれたことです。
実のところ、母を引き取るに当たって私が最も恐れていたのは、母の私に対する過干渉でした。
神経質な母が、私のやることなすこと全てにわたって、口を出してくることはわかっていたので、私がそれに耐えられるかどうか疑問でした。
これが、母の部屋が2階になったことで、自然にクリアされることになったのです。
母は簡単には、1階に下りて来られないからです。
母がはっきりとポータブルトイレに対して、「ノー」と言ったことが、結果的にはよかったのです。
私も母に対して「ノー」を突きつけたことがあります。
母の入浴介助です。
数回は挑戦してみたのですが、ずっと続けていたら、私の体がもたないと思いました。
そこで、母が住んでいた市役所の福祉課にかけあったところ、介護保険が適用されることになって、私が住んでいる地区からヘルパーさんに来てもらえることになりました。
考えようによっては、母がポータブルに対して「ノー」と言ったことは、自分1人で夜中のトイレに行けたからよかったようなものの、私の介助が必要だとしたら、母のわがままと見なされるところでした。
また、私が入浴介助に「ノー」と言ったことも、娘としてはやさしくなかったかもしれません。
それでも、自分の中で「イエス」と「ノー」をはっきりさせことは、大切なことだと思います。
相手が誰であろうと、それが相手の気を悪くさせることや、ときに相手を傷つけることであっても、どうしてもいやなこと、受け入れられないことに対しては、「ノー」と言える自分を作っていくことだと思います。
それが出来るようになると、気持ちが楽になります。
少しずつ、試してみませんか。
笑顔の行方(1) [笑顔の行方]
長年の夢であった、「不登校、学力不振のための家庭塾」を現実のものにしたいと思ったのは、去年の夏に、関西に住んでいた知人が亡くなったことがきっかけでした。
その知人のお嬢さんは、中学の時から不登校になり、その後10年にわたるひきこもり生活を経て亡くなってしまったのですが、それからというもの知人も精神を病んで入院してしまいました。
知人は悲しみと絶望の中に身をおいたまま、6年もの間、入院生活を続けていましたが、一筋の光も見い出せないままに、突然に天国に旅立っていきました。
私がその知人に最後に会ったのは、2000年の晩秋の頃で、入院中の病院に見舞ったのですが、地の底にいるような暗く、生気のない彼女の顔を見て、そのあまりの変わりように衝撃を受けたことは、未だに忘れられません。
彼女の死に直面して、 「彼女のようにつらく、悲しい思いをする人はもう見たくない」と強く思いました。
彼女のことと、子育てで苦労した自分自身の経験が重なって、「不登校、学力不振のための家庭塾」を、私のライフワークにしようと決心したのです。(私のブログに時たま登場する絵は亡くなった彼女が遺してくれた絵です)
ところが、7年前に、私がショックを受けた同じ顔を、ごく最近、母の顔の中に見てしまいました。
母がうつ病を患っていることは前の記事にも書きましたが、その母が持病である腰痛を悪化させ、全く動けなくなって、10月中旬に入院してしまったのです。
入院生活が3週間を経過した頃には、何とか杖をついて歩けるようになったのですが、退院後も、見てくれる人がいなければ日常生活は無理だと医師から言い渡されてしまいました。
病院では治療のしようがない患者を、いつまでも入院させておくわけにはいかないとのことで、退院を迫られていました。
家の人が面倒を見られないなら、施設をという話も出ました。
それを聞かされた母はショックを受け、知人と同じように、生気のない、暗い顔をしたのです。
母と一緒に住んでいる弟一家は、お嫁さんも勤めているので、日中は面倒を見てもらうわけにもいかず、先に対する不安で母の心の中はいっぱいになっていました。
ヘルパーさんを有償で頼むにしても、すっかり人嫌いになってしまった母にはそれも出来ません。
「春になってあたたかくなるまで私のウチに来る。そうすれば少しはよくなっていると思うし……」
私がごくしぜんに発した言葉に、母は「お願いします」と頭を下げました。
うつ病になって以来、物事を決断することが出来なくなっていた母だったので、その即答に、私も弟夫婦も驚いてしまいました。
母を放っておくことができなくて、覚悟も何もないまま、母を引き受けることにした私に対して、夫も息子も理解を示してくれました。
夫は、「一番大変なのは、介護するキミなんだから、キミさえよければ、ボクはいいよ」と言ってくれ、息子は、「ボクを育てたときのように、何でも先回りしてやってあげないほうがいいよ。お母さんが大変になるし、おばあちゃんも自分の頭で考えなくなるからね」と、経験(?)に基づいた貴重なアドバイスをしてくれました。
母の退院が11月の18日と決まり、それからの1週間はてんてこ舞いの忙しさでした。広くもない我が家の一部屋に介護用ベッドを入れ、母の荷物を運び込むスペースを作るために、プチ引っ越しさながらの経験をしました。
退院日が決まってから介護用ベッドが運びこまれる日までは、1週間もなかったので、昼間整理しておいた荷物を、夜になって夫と息子が倉庫に運び込んでくれました。(夫の実家が、私の家の隣にアパートを持っていて、その一室が開いていたので、そこを貸してもらうことにしたのです。夫の実家の好意がなければ、母を引き受けることはできずに、息子に家を出てもらうところでした)
トイレに補助用手すりをつけてもらったり、お風呂場に福祉用具を取り付けてくれる業者を頼んだり、介護保険を住民票を移さずに適用してもらえる方法はないかなどを所轄の役所に相談したり、やるべきことを数え上げたらキリがないほどでした。
お嫁に行った娘は、「お母さんは、頑張りすぎるから、私はおばあちゃんのことより、お母さんのことが心配」と、本気で私の身を案じてくれました。
4年前にうつ病になってしまった母は、昔の前向きな母とは全く違ってしまっていて、心の中は不満と不安でいっぱいになっていました。
「私はなんて、だめな人間なんだろう」と、自分を否定し続けていて、私はそんな母と、正直のところ、うまくやっていく自信もありませんでした。
母はうつ病であるばかりでなく、ひきこもりでもあります。そんな母の考え方や、気持ちが、暗いトンネルの中で身動き出来ずにいる不登校やひきこもりのあなたたちと似ているように思えます。
ドリカムの歌に「笑顔の行方」というのがあって、その歌とは全く状況が違いますが、今、母の笑顔は行方不明になってしまっています。
母に笑顔が戻って、再びふつうの会話ができるようになることを願いながら、また、同時にこれを読んでくれている不登校やひきこもりのあなたたちに笑顔が戻ることを願いながら、これから時々、母のことを書いていきたいと思っています。