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被災地への旅-―石巻、女川町、南三陸町 [旅行]

東日本大震災から丸4年以上経って、ようやく被災地への旅が実現しました。娘は震災直後から今日に至るまで週末になるとかなりの頻度でボランテイアに出かけているのですが、アンにとっては初めての旅でした。そのため、新幹線や宿の手配、見て回る場所についても全て娘におんぶに抱っこの状態でしたが、一緒に行った学生時代の友達2人からも感謝されるほど実りのある貴重な旅になりました。

震災前までは仙台から松島海岸を経て、石巻までは直通の仙石線で行けたのですが、現在は松島海岸から矢本まではJRの代行バス、矢本から石巻までは再び仙石線でという行程になっていました。来月末からは仙石線も復旧するとのことで、代行バスに乗った最後の方の乗客と言えるかもしれません。

被災地巡りは、通常の旅行とは全く趣を異にするものでした。
案内してくださったタクシーの運転手さん自身、石巻市在住で、石巻でも特に被害の大きかった場所に住んでいた方でした。
住居の築年数が比較的浅かったために家は津波で流されなくてすんだものの、周囲の家は殆ど流されてしまい、ご自身と家族も、2階に避難したものの、それでも腰まで水をかぶったということでした。
当日も、その翌日もライフラインが失われた中で、救助のヘリコプターをひたすら待ち続け、夜になってやっと避難所に運ばれたということでした。
ご家族5人は無事だったそうですが、奥さんはご両親を亡くされていました。
現在なお、仮設住宅で生活していて、震災前まで住んでいた場所は不可住地区に指定されているので、戻れないとのことでした。

ホテルを出発してからの最初の訪問地は石巻市内の日和山で、晴れわたった空の下、満開の桜が私たちを迎えてくれました。
日和山からは市内が一望できるのですが、その場所は石巻でも特に被害が大きかったところで、その年も桜は例年と同じように、美しく咲いていたといいます。

映像や活字では度々目にしていたことですが、石巻、大川小学校、女川町立病院、南三陸町の防災庁舎その他、どの場所に行っても、テレビの画面や写真の切り取られた小さな場面からは感じられないものが伝わってきました。
かさ上げした土がところどころに高い山のように盛られているのと、ダンプカーが見られるくらいで、建物や人の姿は見当たらないのに、かつては、そこで多くの人々が日々の生活を営んでいたのだということが空気として感じられ、深い哀しみに襲われました。

行政もそれなりに考えて、復興に取り組んでいるのだと想像は出来ますが、震災から4年が経っても、まだこれだけというのが正直な感想でした。
流された自動車の残骸や、横倒しになったままの交番、津波の二次災害で起きた火災による建物の焼け跡など、震災の爪痕を感じさせられるものは全体的に見れば数は少ないものの、荒涼として連なる大地を見ると、復興までの道のりの険しさを感じずにはいられませんでした。

その間、家族や家を失った人々は、誰を恨むわけにもいかず、自身の置かれた環境を受け入れ、その中で最善の策を探したり、あるいはあきらめたりしながら生活するしかないのかと思いました。
このような災害に見舞われたときに、どうしたらよいのか、何が出来るのかは全くわかりませんでした。
この日は朝から天候には恵まれたのですが、全校児童108人のうち、74人が死亡、行方不明になったという「大川小学校」を訪れたときだけは、強風と激しい雨が降ってきて、傘も役に立ちませんでした。けれど、この場所で命を落とされた方々や生徒たちのことを思うと、雨や風に打たれることがふさわしく感じられ、心が浄化されるような気持ちになりました。

後に訪れた南三陸町の防災庁舎もそうでしたが、大川小学校は廃墟のようでした。
すぐ後ろに山があったものの、前方には山や堤防があり、実際にその場所に立ってみると、そこまで津浪が押し寄せるという発想は湧きませんでした。
それでも、不測の事態というのは往々にして起こり得るし、絶対に大丈夫ということはないのだと肝に銘じるしかないのでしょう。

通常の旅行とは異なり、今回の被災地巡りの旅は、一生忘れられないものになると思いました。
旅行は美しい景色や、家族と楽しい時間を共有するためにあるものだと思っていましたが、今回のように見えるものだけではなく、見えないものを見たり、感じたりする心の旅もあるのだと思いました。
今回の旅を経験したことで、私も友人たちも、4年前の大地震が心の中から消えてしまったり、風化してしまうことはないだろうと思います。
この旅行を企画してくれた娘、そして丸1日、悲しみや痛みを内に秘めながら、不満や文句を一言も発せず、誠実に丁寧に生きてきたと想像出来る、心ある運転手さんに心から感謝です。

一人でも多くの方に、被災地を訪れてほしいとも思いました。


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