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支配する愛 [アンおばさんの教育ミニコラム]

「家庭塾」に連絡してくる保護者の方々は、わが子の「する、しない」、「出来る、出来ない」だけを見て、子どもを評価する方はいなくて、「とにかく、学校にさえ行ってくれれば」、「普通になってくれれば」と願うに留まっています。

けれど、教育家族の親は反対で、多くは「出来るか、出来ないか」だけで子どもを判断し、出来が悪ければ非難したり、責め立てたりします。 偏差値の高い高校、大学に進学することが子どもの「幸せ」だと信じ、教育費に莫大なお金をつぎ込み、肉体的にも精神的にも子どもにかける労力を惜しまず、子どものために出来る限りの努力をします。

子ども自身も能力もやる気もあり、親子で考えが一致していて、共通の目標に向かって苦楽を共にすると、上手くいけば達成感も得られるし、家族の絆も深まり、未来も拓けるかと思います。
一方で、能力はともかくとして子どもにやる気がなく、親は頑張っているのに、子どもが期待に応えず、教育費ばかりがかさんで成果が得られないとなると、親は平静ではいられなくなります。
その場合でも、諦めることは出来ずに、子どもを勉強へと駆り立て、この時期さえ耐え抜けば、明るい未来が待っているはずと                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              信じて疑いません。
教育家族によく見られる例で、自分も親にそうやって育てられてきたから、「幸せ」は偏差値の高い学校に進学すること、一流会社に入り、豊かな生活を送ること、その価値観しかありません。
夫婦仲が悪く、愛のない冷たい家庭であっても、そこはあえて見ないようにして、豊かで贅沢な暮らしができればそれで良しとするのだと思います。

その種の親は、往々にして、子どもが言うことを聞かなかったり、思い通りにならなかったりすると、子どもに愛情を注げなくなります。 本来、親は子どもに見返りを求めるべきではないと思うのですが、「こんなに子どものためにしてやったのに何なの、この子は」とか、「裏切られた」と感じる親さえいます。

それは子どものためと言いながら、本当は自分のため、「子どもを支配する愛」と言えるのではないでしょうか。 それは愛とは言えないものですが、親は子どものためと思ってやっているのでそれを愛だと錯覚し、子ども自身もそれを親の愛だと信じているので逆らうことも出来ずに、親の期待に応えられなかった負い目もあって、青年期にさしかかる頃には、心を病んだり、引きこもりになる可能性もあります。
可能性ではなく、アンと親しい家庭教師の先生方の教え子にはそういう青年たちが少なからずいます。

最近、アンの知人の一人が「あんなに心配をかけておいて、あれほど尽くしてやったのに、恩を仇で返して。何なの。あの子は」と言って、子どもとの関係を断ってしまったという出来事がありました。
私は、「…のに」と思うことはやらないほうがいいと思っていますし、息子を亡くしたアンからしてみれば、親の意に沿わなくても、子どもが元気で幸せに暮らしていれば、それで十分という思いがあります。

「支配されている子ども」は、多くの場合、母親は否定したくても出来ない重すぎる存在です。 支配する親に育てられた子どもは、愛に飢え続け、自己肯定感を持てないまま、満たされない日々を送ることになります。
たとえどんなに子どもを愛していても、「支配する愛」が愛ではないことに、親も子どもも早く気づいて、関係を再構築してほしいと思います。
親も子も幸せにはなれないからです。



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家庭塾が必要な生徒 [アンおばさんの教育ミニコラム]


端的に言ってしまえば家庭塾が必要な生徒とは、「やれば出来るのにやらない生徒」と「やってはいるけど出来るようにならない生徒」だと思っています。

「やれば出来るのに」と親や先生から思われている生徒は、結局はやらないままになってしまうことが多いので、出来るようにはなっていきません。
「やってはいるけれど出来るようにならない生徒」も、努力はしていてもなかなか出来るようにはなりません。
どちらの生徒も、家庭塾に合う生徒だと思います。

「やれば出来るのにやらない生徒」は、これまでも懸命に勉強したことがないので、「やる」ということがどういうことかわかっていません。
受験生であれば、1日に30分や1時間勉強したからといって、それを「やった」と思うには大間違いです。
少なくても3時間くらいはやったほうがいいです。
けれど、これまでにそれだけ勉強した経験がないので、何をどう勉強したらいいかもわからないはずです。
だから、何をやるかをアドバイスしたり、きちんとやったかどうかをチェックしてくれる個別の先生が必要になります。

「やってはいるけど出来るようにならない生徒」は、記憶力が悪かったり、勉強のやり方がわからなかったり、うまくポイントがつかめないことが原因だと考えられます。

アンの生徒ではありませんが、以前、知り合いの家庭教師の先生から、中学受験の生徒で、「こんなにやっているのに出来るようにならないのは、頭が悪いから。だから、私は人の何倍も努力しなければだめなのだ」と思って、必死に勉強する生徒の話を聞いたことがあります。
その生徒を担当していた別の家庭教師の先生は陰で、「彼女は愚鈍だから」と言っていたそうですが、家庭教師の先生方の課題をきちんとこなし、志望していた私立の中学受験に合格して、今は医大で医師を目指して、相変わらずの努力を続けているそうです。
彼女の父親が患者を本当に大事にする開業医で、彼女も父親のような医師になりたいとのことでした。

もちろん、「やればやるだけ出来るようになる生徒」もいます。
偏差値の高い大学に合格する生徒の中には、このタイプの生徒も含まれるでしょう。

それでも、私は「やってもやっても出来るようにならないから、私は努力するしか能がない」と思って、懸命に勉強する生徒に心が惹かれます。
医師を目指して努力し続ける上記の大学生は、能力のない悲しさや悔しさを知っているので、将来は患者の気持ちに寄り添える立派な医師になれると確信できるからです。
優秀なことが、必ずしもいいことではないと、アンは思っています。


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教育虐待が子どもの未来を奪う [アンおばさんの教育ミニコラム]

朝日新聞の10月初旬の記事に、「教育虐待 子を圧迫」という記事がありました。
「佐賀県で起きた元九州大生の長男(19)の両親殺害事件に触れ、小学校低学年から、勉強や成績をめぐり、父親の虐待行為が始まり、殴られ、けられるなどして、あざができることもあった。長男は、裁判員裁判で、懲役24年の判決を受けたが、弁護人は控訴している」
この事件のように、受験などの指導が「教育虐待」を生み、事件に発展するケースが後を絶たないといいます。

アンの「家庭塾」は、不登校や学力不振を対象にしている塾なので、「教育虐待」をする親はいませんが、それでも「名の知れた大学、偏差値の高い大学に入らなければ意味はない」、「三流大学に入ったら人生は終わりだ」と考えている親や生徒がいないわけではありません。

私が一番心が痛むのは、友人の家庭教師から度々話が出る、教育虐待を受けて育った子が、希望の大学に入れずに、その後、合格した1ランク下の大学にも行かず、就職もしないで何年も家に引きこもっているケースです。

彼らはみな怠けていたわけではありません。ただ、親の期待に応えられなかったり、勉強のできる兄弟や姉妹と絶えず比べられたりして、自己肯定感が持てなくなり、「自分はだめな人間だ」と思い込んでしまっているだけです。
アンも友人に頼まれて、数人の若者と会っていますが、それぞれ真面目な好青年という感じで、なぜそんなに自分を卑下する必要があるのかと思ってしまいます。

新聞記事もそうでしたが、なぜ親は、勉強が出来ること、難関大学に入ることが最も価値のあることだと考えるのでしょうか?
友人の家庭教師の話では、医師の家庭、父親が上場企業に勤めている家庭が多く、一般的には社会的ステータスの高い家庭だということですが、子どもを教育虐待しておいて、その家庭は幸せなのかと思ってしまいます。
裕福だったり、世間的に高く評価されていることが幸せだと考えているのかもしれません。
さらに言えば、幸せとは条件ではなく、それを感じる心だと思うのですが、そういったことには興味がないか、考えてもないのかもしれないとも思います。

過去に教育虐待をしていて、自分が悪かったのかもしれないと反省している親もいて、引きこもりになったわが子を責めずに、見守ろうと思っているケースも、もちろん、あります。。
けれど、その場合も、内心ではわが子を認められずに、不甲斐ないと思っているのではないでしょうか?
それでは、どんなに子どもに寄り添った言葉や態度で示しても、感受性の豊かな若者であれば容易に見抜かれてしまうでしょう。

不登校の生徒にしても、引きこもりの若者にしても、心やさしくて、本人は気づいていないかもしれませんが、まだ表に出ていない優れた能力や、人として見た場合に性格もいいので、「自分史」を書いて自分を肯定できるようになって、少しでも前に進んでくれたらと願っています。



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不登校2割増、最多29万人 [アンおばさんの教育ミニコラム]



文部科学省が実施する「児童生徒の問題行動・不登校調査によると、2022年度の不登校の小中学生は過去最大の29万9千人で、前年度日22.1%の大幅な増加とのことでした。朝日新聞に掲載されていた記事では、大阪公立大学の山根則子教授が「コロナ禍による家庭の経済不安などが子どもにストレスを与える状況が続き、不登校という形で強く表れたのではないか、と分析していました。

その一方で、都内は空前の建築ラッシュということで、7000万円~1億円もする一戸建てやマンションが飛ぶように売れているそうです。
けれど、ごく一部の富裕層を除けば、アンも含めて、一般の庶民は日常の生活で、あれもこれもという感じで物価高を身近に感じ、それと比例して給料も上がらないことから、家計を維持するのに四苦八苦しているのが現状ではないでしょうか。
共働き家庭も多く、そうなると夫婦ともに忙しく、気持ちにも余裕がなくなって、イライラすることが多くなり、わが子とゆっくり会話する時間もなくなり、子どもも学校で何か問題があっても、それを親に言ったとしても、じっくり聞いてもらえず、「言っても無駄」とあきらめてしまうことが多いのではないかと思います。

多かれ少なかれ、この社会で親も子もストレスを感じながら暮らしているので、同じような思いを感じている子どもたちが通う学校では、そんな思いを共有することは不可能で、学校が楽しい場所ではなくなっていることも想像できます。

今は以前ほど、不登校を問題視する傾向も少なくなり、子どもが学校に行かなくなったからといって、親が必要以上に子どもを責めて、学校に行くことを強制したり、または自分の子育てが悪かったのだと思う必要はないと思っています。
言ってしまえば、人に対する優しさや温かさが欠如してしまったこの社会に問題があると思っています。
そうかと言って、形の見えない社会を責めてもはじまりません。

現在、私が時々話をしていた小学3年生の女の子は10月から、給食だけ食べに学校に行くようになりました。
行き始める前よりも、「学校がこわくなくなった」と話しています。
家の外でも友だちと遊べるようになったそうです。

今回の調査でアンが気になったのは、小・中学生の4割が学校内外の専門機関に相談していなかったという事実です。
アンの家庭塾にも始めた当初は断わらざるを得ないくらい不登校の生徒が来ていたのに、最近はそれが途絶えています。
親が子どもを強制的に学校へ行かせようとせずに、「時期がくれば行くようになるだろう」と子どもを信じて、おおらかな気持ちで待っていれば、そういう日も来るかと思います。
けれど、目の前に学校に行かないわが子がいれば、冷静に対応することも難しいでしょう。

アンはやはり、家族以外の誰か、信頼できそうな人――優しい人より、温かい感じのする人――に相談に乗ってもらうのがいいように思います。
アンが信頼できるかどうかは、ブログを読んでくださる方に判断してもらうしかありませんが、保護者も生徒も勇気を出して、一歩踏み出してもらえればと思います。


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不登校の生徒には居場所が必要 [アンおばさんの教育ミニコラム]


夏休みも残りわずか、不登校の生徒とその保護者にとっては気が重い時期になるかと思います。
子ども自身も、「2学期からは学校に行こう」と考えていたり、わが子にそう言われれば淡い期待を抱くこともあるかもしれません。

先週、NHKの朝の番組で「不登校」を取り上げていましたが、その中で、「いじめ」や「友だちとの関係」、「担任の先生が嫌い」「勉強についていけない」など、はっきりした理由もないのに、学校に行けないケースを紹介していました。

実はここ1年ばかり、小学3年生の不登校の生徒とラインのビデオ電話で週に1度ほど話をしています。
学校に行けなくなってから、1年余りになりますが、保護者も学校の先生も、学校に行くことを強くは勧めていません。

どうして学校に行きたくないかアンも尋ねたことがありますが、まだ3年生ということもあり、その理由を説明する言葉はもっていません。
アンも彼女を学校に通わせるために話をしているわけではありませんが、家にいることが当たり前になってしまって、この先もずっと学校に行かないのはよくないと思っています。
そこで試しに、「学校に行くのがいやなら、4年生になっても、5年生になっても、中学に行くようになってもずっと行かないことにしよう」と提案してみました。
すると、彼女は「それは人間としてよくないでしょう」と、大人びた返事をしました。
よくわかっているし、学校へ行けるものなら行きたいと思っていると想像できます。

彼女がなぜ不登校になったかというと、「特に理由はない」という上記のケースだと思われます。
学校には行っていませんが、同じマンションに住む同級生とはよく遊んでいます。

「特に理由がない」ということについては、これはアンの想像になりますが、同じ年齢の友だちに話を合わせなければならないのが苦痛に感じられるのではないでしょうか。

かなり以前になりますが、チャレンジ高校を2年でやめてカナダに留学した生徒がいます。その彼が、留学する前の夏休みに、1カ月間、カナダの学校の体験学習に参加したことがありました。
その時に、みんなで昼食を食べに行くことになり、木の下で一人で本を読んでいた生徒を誘ったといいます。
その時に、その生徒は「この本を読んでいたいから、行かない」と断ったそうです。
すると、誘った生徒たちは「じゃあ、またね」と言って、彼の気持ちを尊重したと言います。日本だったら、こんなことはあり得ないとアンの生徒は言っていました。

また、授業中も一つのテーマに対して、いろいろな意見が飛び交い、それが刺激的でおもしろかったといいます。

友だちと自分の考え方や感性が合わないのは当然のことなのに、学校では空気を読んで、友だちに合わせ、自分の気持ちや意見を言えないことが今の学校のような気がします。
それは自分の意見をもっていたり、感受性の豊かな生徒にとっては、居心地の悪い、楽しくない学校になってしまうのではないでしょうか。
もっとも、学校がつまらない場所でも、自分の気持ちに蓋をして友だちに付き合わなければならない場所であったとしても、それを我慢して通っている生徒も数多くいるとは思います。
「わがままだ」と決めつけることもできるでしょう。

けれど、タイトルに書いたように、不登校の生徒にとっては学校以外の「居場所」が必要だと思います。
NHKの番組では、小学校から不登校だった生徒は高校から通信制高校に通うようになり、もう1人はフリースクールに通うようになって、そこに自分の居場所を見つけたようです。

自分に合った居場所は探せば見つかると思います。
不登校の生徒、保護者の方も、勇気を出して前に進んでほしいと思います。

私事になりますが、去年、亡くなった息子は不登校ではありませんでしたが、小学校では浮いた存在で、先生や友だちから認められずに、自己肯定感も低かったのですが、中学1年の時に、長野に山村留学(通称、ダイダラボッチ)に行き、そこで出会ったスタッフや子どもたちとの交流を通して、未来への展望を拓くことが出来ました。
彼にとってはそこで過ごした1年間が、後々まで、亡くなる間際まで大きな財産になっていたと思います。



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どの家庭も問題を抱えている [アンおばさんの教育ミニコラム]

人生が思い通りにいかないことは、年を重ねれば重ねるほどわかってくることです。
これは、子育てに置き換えてもわかることだと思います。
「子育てが思い通りにいかない」ことは、子を持つ親なら誰でも経験することでしょう。
「なぜ、ウチの子は親の言うことを聞かないのか」、「よその子と比べてウチの子は」「友だちと上手く遊ぶことが出来ない」「勉強面で他の子より遅れている」「発達障害かもしれない」「学校に行かない」など、子どものマイナス面は親の心配や不安の種になり、それが成人に達したわが子のこととなればなおさらのことでしょう。

「どの家庭も問題を抱えている」と書きましたが、それは他人事ではなく、アンの家庭にも当てはまることです。
アンの望みはただ一つ、アンと夫、そして娘夫婦、息子夫婦が健康に暮らすことです。
ところがこの望みは何としても叶わないのです。
もともと難病をもっていた息子の病気が悪化し、令和を迎える前に勤め先を辞めざるを得なくなってしまったからです。
病気が回復する可能性はありません。これから先、どう生きていけばよいのか、息子本人はもちろん、母親のアンとしてもそのことを考えると、心配は募るばかりです。

そんな折に、息子に「本当に、どん底だね」と言ったら、息子から「(お嫁さんの名を言って)Aがいるから」という返事が返ってきました。
アンはその言葉に救われました。事あるごとにアンに電話やメールをしてくるお嫁さんで、頼りになるとは言えないのですが、お嫁さんの存在自体が息子の支えになっているのだと実感しました。
また、落ち込みながらも息子が前向きな気持ちを失わないでいてくれること、打開策を見つけるために動いていることも、前に進む手立てになると信じたいです。

さらに、息子は現在の苦しい状況を家族や友人はもちろん、近い親戚や知人、公共機関にも出向いて相談できていることも、苦しい状況にあっても立ち上がるきっかけにはなるはず、と祈る思いで見守っています。
仕事を辞めざるを得なくなった当初は、中学生の時に行った長野の山村留学先にも遊びに行き、新鮮な空気を体いっぱいに吸い込み、昔からいる温かいスタッフたちに励まされ、元気をもらって帰ってきました。

アン自身も息子のことは何でも話し合える数人の友達に聞いてもらっています。
自分の胸の中に収めておくだけでは苦しくなるだけだからです。
アンの友だちも同様です。
友だちと会う時はいつも、年齢と共に低下していく自身の体のこと、そしてそれぞれの家庭の問題についてお互いに話をしながら、「問題のない家庭なんていない」と共感し合っています。


ところで、この5月に起きた川崎のスクールバス殺傷事件、6月の元事務次官の息子殺害の事件も記憶に新しいことですが、この事件を耳にした時、アンの脳裏には、阪神大震災の時に亡くなった知人のOさんのお嬢さんのことが浮かびました。
だいぶ以前のブログにも書きましたが、お嬢さんは中学の時に不登校になり、その後は亡くなるまで家に閉じこもったままで、Oさんに暴言を吐いていて、Oさんもお嬢さんも精神を病んで、二人で精神科に入院したこともあったといいます。
アンとOさんは頻繁に手紙のやり取りをしていたのですが、アンがこの事実を知ったのは、お嬢さんが亡くなったずっと後のことで、それもOさんの隣人から聞かされてのことでした。

Oさんも彼女の夫も10年以上前に亡くなりましたが、恵まれない家族だったいう思いを、いまだに捨てきれません。
その当時、アンが力になれたかどうかはわかりませんが、一人で悩んで精神に変調をきたす前に、誰かに話を聞いてもらったり、相談したりしていたら別の方向に進む可能性もあったかもしれないと思うからです。
Oさんからは一度、「夫とは離婚したいと思うけど、世間体が悪いでしょう」という言葉を聞いたことがあります。
ご主人の人となりはわからなかったのですが、世間体などという実体のないものに振り回されて生きることは、アンには出来ないと思った記憶があります。

けれど、世の中には言いたくても言えない人、苦しみや悩みを抱えながらどうすることも出来ずに生きている人が大勢いるといることも想像できました。
自分の言いたいことを言って生きられるのは幸せなことかもしれないとも思いました。

多かれ少なかれ、どんな家庭でも問題を抱えて生きていると思うのです。
それが大きくなりすぎて自分の家だけで解決できないと思ったら、追い詰められて子どもが自分を傷つけたり、他人を傷つけてしまうことになる前に、助けを求めてほしいと切に願います。
アン自身の家庭の問題だけでなく、社会に目を広げれば、子ども、特に幼い子どもたちが大人によって、命を落としたり、傷つけられたりすることがない社会になってほしいと思っています。
幼い子どもを傷つけてしまう大人は許せませんが、彼らも生きづらい環境の中で育ち、大人になっても不安や悩み怒りなどを、誰にも話せず、また信頼して話せる相手も周囲にいなかったのではないかと想像しています。

いずれの場合も、信頼できる相手を見つけるのは簡単ではないかもしれませんし、人を頼るには勇気がいるかもしれませんが、外に向かって声をあげることが、前に進む一歩だと思います。
手前みそになりますが、アンがお勧めできる相談機関は、過去にアンも学び、現在も会員になっている下記のNPO法人です。

「日本子どもソーシャルワーク協会」(東京都世田谷区)
[電話]03-5727-2133 http:/www.jcsw.jp/kodomo-sw@jcsw.jp




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学校という組織(2)(私立中学、私立高校) [アンおばさんの教育ミニコラム]

前回は、都立チャレンジ高校のここ数年の変化について、アンなりの見解を述べてみましたが、時々面接を手伝っていただいていた元公立中学の先生から、それについての的確な意見をいただきました。

「エンカレッジスクールは登校に自信ありの生徒、チャレンジ高校は思考に自信ありの生徒と、ハッキリ区別してきたように思います」

上記の先生の言葉で、核心を突いていると思ったのは、「チャレンジ高校は思考に自信ありの生徒」という部分です。これまで、チャレンジ高校の受験生に関わってきて、「思考力」(言語で考える力といってもいいかもしれません)がない生徒は、合格するのが難しいと思っていたからです。
(それ以上に、面接では見た目ややる気がポイントになるとは思っていますが)


ところで、今回は都立チャレンジ高校ではなく、私立中学と高校を、学校という組織の面から考えてみることにしました。
昨年は、チャレンジ高校の受験生は少なかったのですが、私立の中学生に英語を教えたり(現在も続いていますが)、私立高校生に関わったり、私立中学、高校の現状について家庭教師の先生から話を聞いたりする中で、学校側の対応について納得のいかないものを感じていました。

公立中学であれば十分についていけると思われるレベルの生徒に対しても、私立では成績が振るわないと、ご家庭で何とかしてくださいと言われるので、保護者は塾を探したり、家庭教師を頼んだりして対応を余儀なくされます。最近では、それほどレベルの高くない私立の中学でも、先取り、先取りで、授業の進み方も早いので、入学後も必死に勉強しなければならないケースも多いと聞いています。そんな勉強オンリィーの生活に適応出来る生徒はいいのですが、勉強に苦手意識をもっていたり、「何のために勉強するのか」などと考えてしまう生徒は、学校に通うこと自体が苦痛になって、不登校の原因にもなりかねません。そういう生徒に対して、学校側の反応が冷ややかなのも気になるところです。

勉強が全てではないはずなのに、その部分で学校または保護者からだめだという烙印を押されると、鈍感力の働かない感受性の豊かな生徒は自己肯定感が低くなり、やらない自分、出来ない自分自身を責めて苦しむことになり、年齢が上がるにつれて事態は深刻になっていきます。

現在、アンのところに通って来ている中3の生徒の学校は、塾に行ったり、家庭教師がついていることを前提に授業を進めているといいます。内容も高校の範囲まで入っているので、幼い頃から自発的に勉強する習慣がついていたり、やるべきことがわかっていて、参考書や問題集を使って自分で理解しながら計画を立てて勉強することが出来る生徒でないと、ついていくのは難しいと思いました。大学の付属校なのですが、他大学に進学する生徒の割合も高く、進学実績をみると指定校推薦でも難関大学へ多数の合格者を出しています。つまり、そのレベルに見合う学力がついているから、指定校推薦も多いのだと推定出来ます。


以前は、と言っても10数年以上前のことになると思いますが、私立の中学、高校は公立の学校より面倒見がよく、レベルの高い中高一貫校に入れば、塾に通わなくても難関大学に入れるという時代があったかと思いますが、現在は当てはまらないと考えるのが妥当だと思います。
つまり、ある程度の私立中学に入学したら、その後の勉強も大変で、塾や家庭教師をつけることを前提に考えておいた方が間違いないということです。少子化の影響で、どの学校も評価を上げなければ生き残れないと考えているため、生徒への要求も高くならざるを得ないのだと思います。


そのため、勉強の苦手な生徒に対しては排除したり、自己責任に帰する学校側の姿勢にアンは少なからぬ疑問をもっていました。ところが、つい先頃、斎藤 孝さんの「受験に欠かせない力をきたえよう ~日本語力と身体感覚~」という講演を聞き、客観性に欠けていたことに気づかされました。

斎藤 孝さんによると、「学校の授業は、上手なテニスのプレイヤーを見ているだけ。見ているだけでは上手にならない」とのことでした。

上手になるためには、つまり出来るようになるためには、繰り返しの勉強が必要で、東大受験生は、「最低でも同じ問題集を5回はやる。5回やらない人の話は聞かない」、勉強時間についても触れ、「結構やっているんです。3時間などと威張って言っている生徒の話は論外」――

勉強している時も、「ぼうっとやらないで意識をはっきりさせてやる」、「頭の中の作業員を増やす」、英語の勉強であれば、「三単現のsをつけないと気持ちが悪い。不定詞の後に動詞がこないと気持ちが悪い」というように、感覚的にわかるようになるまで反復してやる――

勉強への取り組み方としては、「勉強は寒中水泳と同じで、とっかかりが一番いやなので、ストポッチを使っての『5分間勉強法』をやってみて、まず5分やってみたら、あと5分、また5分というように増やしていく」、「やる前から、やらない、出来ないという選択肢はない」、「イチローのようにこの1球にかける。先のことは考えずに今に集中する」――全て納得出来る内容でした。

何が言いたかったというと、私立中学、高校で理想の未来を作っていきたいと思ったら、上記の斎藤 孝さんの言うように勉強すること、1人では無理な場合、どういう段取りで、何をやったらいいのかわからない場合は、塾や家庭教師につくしかないのだと思いました。
学校という組織を批判しても何も変わらないからです。


いずれにしても、都立でも私立でも、学校という組織に重きを置きすぎないで、生徒自身の能力、またそれぞれのご家庭の経済状態も踏まえながら、より自分に合った学校に進学すること、そのための努力は惜しまないこと、その頑張りが後々の力になるように取り組むことが大切だと、アンは思っています。

英語指導に関しては、私立中学、私立高校の英語のやり直しから始め、大学受験または英検2級以上の英語の力をつけたい生徒、ある程度はやる気のある生徒に来てほしいと思っています。(全くやる気のない生徒に、出来るようになってもらうには限界があるからです)



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学校という組織(都立チャレンジ高校) [アンおばさんの教育ミニコラム]

アンはこれまで、不登校、学力不振の生徒の進学先としてはチャレンジ高校が一番だと思っていました。おとなしく真面目な生徒の多い、雰囲気のいい学校で、都立なので保護者の経済的な負担も少なく、過去は問わずにこれから頑張ろうとしている生徒を応援する学校だと認識していたからです。

アンの家庭塾に来なくても合格する生徒はいくらでもいると思いますが、縁あって来てくれた生徒に対しては、不登校なら、まず自分の家から外の世界に出て、家族以外の他人と関わりを持つこと、きちんと通ってくることで高校に通える下地を作ってほしいと思っていました。受験に必要な志願申告書や作文、面接の練習は次の段階になります。
学力不振の生徒なら、まず机に向かって勉強する習慣をつけること、勉強に対する抵抗感を志願申告書や作文の練習をすることで少しずつ減らしていくことをテーマにしていました。勉強嫌いで、1日に30分勉強するのも苦痛なようでは、チャレンジする生徒を求めているチャレンジ高校には合わない生徒だと思っていたからです。

その観点から見れば、家庭塾で頑張った生徒は自信をもってチャレンジ高校に送り出せるし、チャレンジ高校もそのような生徒のためにある高校だと考えていました。

ところが、ここ2、3年は、アンのチャレンジ高校に対する印象が変わってきています。設立当初のチャレンジ高校の理念が薄らいできているように感じられるのです。

学校の先生になった元生徒から、学校にとって一番大事なのは、1に組織、2に学年、3にクラス、4に生徒と聞いたことがありますが、チャレンジ高校は一般の高校と違い、1に生徒とまではいかないまでも、生徒を大事にしてくれる学校だと思っていました。
それが一般の高校と同じように、組織を優先するようになってきたような気がしています。学力にシフトして大学への進学率を伸ばしたり、学力不振よりも頭のいい生徒を多くとって、学校の評価を上げることを優先したり(これが生徒のためなら全く問題はないのですが、落ちこぼれや、卒業出来ない生徒が増えていくことにもつながっていきます)、全日制からの先生が以前より多くなり、生徒に情熱をもって向かう先生が少なくなっている印象を受けます。中には、チャレンジ高校に不本意ながら赴任して、生徒に偏見を持っていたり、やる気の感じられない先生もいるという声を卒業生や在校生、保護者から聞く機会も増えてきました。

7年ほど前に、アンが手に入れた情報によると、チャレンジ高校が求めている生徒は、本気で入学したいと思っている生徒、頑張る気持ちのある生徒でした。そのために受験に必要な志願申告書や作文、面接も建前ではなく、本音と本気で向かえば合格出来るという印象でした。
けれど、生徒一人ひとりより、一般の高校と同じように組織第一で、本音や本気よりも建前が重視されるようになってきたように思います。

具体的には、不登校の生徒なら、これまで朝起きられなかったり、昼夜逆転していたり、ゲームやSNSで1日の大半を過ごしていたとしても、「入学したら、毎日、学校に通えますか」と問われたら、「はい」と答えられる生徒。学力不振で、これまで家でほとんど勉強してこなかった生徒でも、「入学したら、一生懸命に勉強します」と、言える生徒です。嘘は見抜かれてしまいますから、自信がなくても、目に力を込めてやる気を示せばOKです。
上手な演技が出来ればいいということになるかもしれません。

上記の例はアンの推測にすぎませんが、全く的が外れていたとしたら、その方がアンにとってはうれしいことです。
チャレンジ高校が組織を重視する一般の高校に近くなって来ているとしたら、そこに向けて生徒と共に努力しようとする気持ちも半減します。

今年、チャレンジ高校に不合格になった生徒の作文の評価があまりに低かったこと(面接はともかくとして、過去問に準じた問題ならこれまでの生徒はかなりの得点を取れていたし、今年の生徒はもともと作文が不得意ではありませんでした)、彼が受験した組織としての学校に合わなかったと判断されたのではないかと感じられたこと、春休み中にチャレンジ高校をやめたいと相談に来た生徒が出たこと(学校の体質に嫌気がさしているようでした)も、アンの気持ちの変化に関係があると思っています。

それでも、これからもチャレンジ高校の受験を希望する生徒には、これまでと変わらずにやっていきたいと思っています。
ただ、本音より建前を重視したり、合格するために嘘を教えたり、演技することを指導の柱にはしたくないと思っています。

繰り返しになりますが、不登校の生徒なら、家庭塾に通って来ることで少しずつ活力を取り戻し、高校で再び不登校にならないようにすること、学力不振の生徒なら、家庭塾で勉強に向かう姿勢や態度を身につけ、嘘ではなく、「高校に入学したら勉強も頑張る」と言える自分を作ってもらうことです。 そうでないと、チャレンジ高校に合格しても、なかなか卒業出来なかったり、卒業出来たとしても、その先の進路は危ういと思っているからです。


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怠けている子と学ぶことに困難を感じている子 [アンおばさんの教育ミニコラム]


アンが家庭教師として通っている生徒と、「家庭塾」に通ってきている生徒には大きく分けて2種類のタイプがあります。
「怠けている生徒」と「学ぶことに困難を感じている生徒」です。
「怠けている生徒」は文字通り怠けている生徒で、やれば出来るはずなのに、やる気がない、面倒くさがり、勉強が嫌い、またはある時点から勉強がわからなくなりやる気がなくなった、さらに家で勉強する習慣が全くなかったなど、原因はいろいろ考えられます。
「学ぶことに困難を感じている生徒」とは、落ち着いて座っていることが出来ない、集中力が長続きしない、根気がない、すぐにあきらめてしまう、こだわり感が強く思考がある時点で止まってしまっている、元気な時より体の不調を訴えるときの方が多い、つねに心に問題を抱えている、字が浮いて見えたり、ピントが合わないために読むことに困難を感じている、文字の形をつかみにくい、黒板の字を写すのが困難、今さっきやったことをすぐに忘れてしまう、努力しても努力しても成果が上がらない、ゆっくりと1対1で教われば理解できるが集団の中ではついていけない、人の感情や表情を読むことが苦手で周囲と打ち解けられない、好きなことをやるには問題はないが、嫌いなことや苦手なことをするのに人の何倍も苦痛を感じる等など、数えあげたらきりがありません。この中には軽度の発達障害も含まれていますが、これを障害と見るか、そういう特徴をもった子どもと見るかは意見の分かれるところだと思います。
また、どちらとも言えずにグレーゾーンに入る子どももいるかと思います。

アン自身はどうかと言えば「よくわからない」というのが実際のところです。
「怠けている子」と「学ぶことに困難を感じている子」の境目は微妙なところだと思います。怠けている子の中に、心や体の問題を抱えている生徒も含まれているからです。

ただ一つはっきり言えることは、やれば出来る「怠けている子」でも、「学ぶことに困難を感じている子」でも、やらなければ出来るようにはならないということです。あきらめてしまっては何も始まらないということです。
そして、どちらの子にとっても「やって出来るようにする」というのは、本人にとって苦しいことですし、教える側にとっても相当の忍耐力が必要になります。
ですから、アンは「家庭塾に来たらどんな生徒も出来るようになります」とか「必ず志望校に合格させます」というようなことを、簡単に言うことはできません。
それでも、どうしたら生徒が出来るようになるか、志望校に合格できるか、努力するということはどういうことなのか、その生徒なりの力を出し切って結果を出してもらうこと(不本意な結果でも)、自分を否定しないで未来に夢を持てるようになってほしいとは、いつも思っています。

そのために出来ることといったら、生徒を認めること、生徒それぞれにに合わせて教え方を工夫したり、少しずつやっていったり、何十回でも繰り返しやっていくぐらいのことです。そして、他人と比べてではなく、今までの自分と比べて、わかるようになった、出来るようになった、またはやる気が出たということをまず目標にして、それができたら学力アップや志望校の合格につなげていくことを目指しています。

ところで、「不登校、学力不振の家庭塾」の看板をアンは出していません。常識的に見れば偏見を持たれると思うからです。
けれど、アンの塾に来る生徒は実際にはみんなやさしくて素直ないい子たちばかりです。それだけに、今の学校生活の中では居心地の悪さやストレスを感じてしまうのだと思います。決して偏見をもって見られるような子どもたちではありません。わがままな子であったり、怠けたくて怠けている子ではなく、器用には生きられない生きづらさを感じている「困っている子」なのだと思います。



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「私が」から「あなたが」へ [アンおばさんの教育ミニコラム]

毎朝、楽しみに見ていたNHKの朝ドラ「ちりとてちん」が、先週の土曜日で終わりました。
視聴率はあまり振るわなかったようですが、初回から最終回まで変わらずに貫かれていたテーマに、私は共感していました。

それは前回のブログ記事「山村留学先のご紹介」にも通じるものでした。
日々の平凡な暮らしを積み重ねていくことが、大切だということです。

けれど、高校を卒業したばかりの主人公の喜代美には、それがわかるはずもなく、「スポットライトを浴びて、輝きたい。脇役のまま人生を終わりたくない」と、心の底から思っていました。
そして、子どものことや、人のことばかりを考えて暮らしている自分の母親に向かって、「お母ちゃんのようになりたくない」という言葉をぶつけ、家を飛び出して、故郷の福井から大阪に向かいます。
わが子に、自分の生き方を否定された喜代美の母親は何も言いませんでした。

喜代美くらいの年代の少女が、母親の生き方を否定したり、批判的に見ることはよくあることだと思います。
そうやって、親を踏み台にしたり、親を乗り越えて、自分の未来を築いていこうと思うことは、悪いことではなく、むしろいいことだと思います。
親は、子どもが自分のやりたいことを見つけて、楽しく、幸せに暮らしてくれたら、それだけでうれしいからです。
子どもの悲しそうな顔や、つらい顔は、できれば見たくないからです。
喜代美の母親もまさにそんな母親でした。

大阪に出た喜代美は、自分のやりたいことを見つけて、10年以上の修業を積み、女流落語家になります。その先には、これまで以上に輝いたスポットライトを浴びる人生が待っているはずでした。
ところが、結婚した兄弟子との間に、子どもが授かったことがわかると、喜代美は潔く落語をやめる決心をします。
自分の母親のように、子どもや、周りにいる人間の世話をして、周囲を明るくする人生を送りたいと思ったからです。
「お母ちゃんは太陽だったんだ」と言いながら、昔、母親を傷つけたことを謝ります。

喜代美の母親にかぎらず、主婦や母親というのは、評価されることの少ない存在です。
日々の、平凡で、たいしておもしろくもない生活を、延々と続けているだけなのですから……。
誰からも評価されなくて、思うようにいかない子育てに疲れ果てて、虚しくなってしまうことも間々あると思います。

けれど、毎日、毎日、おもしろくもない(家事や子育てが大好きという人もいるかもしれませんが、そう多くはないと、私は勝手に思っています)ことを、繰り返しやり続けることは、簡単なことではありません。まして、子育てとなると、すぐに結果が出るものでもなく、喜代美のように30歳ちょっと出たくらいで、母親のすごさに気づいたら上等だといえるかもしれません。

ここで注目したいのは、喜代美の母親が、自分のことを太陽だと思っているわけでもないし、自分を犠牲にして、人のためにだけ生きているわけではないことです。
喜代美の母親は、ごく自然に、楽しそうにそれをやっています。

「私が」は後回しにして、「子どもの笑った顔がみたい」「あなたにしあわせになってほしいと」と、「私が」より「あなたが」を優先して考えます。
喜代美は、そんな母親の生き方が「豊か」だと気づくのです。

だいぶ昔のことになりますが、子どもがいて、なおかつ輝いている女優さんがいました。
私の子育て真っ最中の頃のことで、あれだけ忙しく仕事をして、輝いていたら、まだ幼い子どもたちは輝けないのではないかと、ふと思ったことを覚えています。
光があれば、必ず陰もできると思ったからです。
私の危惧は当たってしまい、彼女の子どもは犯罪者になってしまいました。

今の世の中、「あなた」より「私が」ばかりが、はびこっているような気がします。
有り余るお金を持っている人も、それで豪邸を建てたり、きらびやかなモノで飾ったりして、さまざまな「あなた」がいることに気づこうとさえしていません。
莫大な利益を上げている大企業も、さらなる競争へと突き進んでいくだけで、社員のことを大切にしていません。
政治家はもっとひどいです。自分が得することだけを考えて、国民のことなど全く考えていないように見えます。

それに比べると、「私が」より、「子どもが」や「あなた」を考えて、悩んだり、苦しんだりしながらも、子どもや家族を、気づかないところで支えている女性は、エライと思います。

毎日の何気ない暮らしを、ていねいに大切に過ごしましょう。
そして、自分の子どもに、「豊か」だと感じてもらえる生き方ができたらいいですね。


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