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母の7回忌 [アンのこと]

つい先日、母の7回忌が終わりました。
母の妹弟達のうち、3回忌までは元気だった弟、上の妹(私にとっては叔父と叔母)もすでに亡くなり、総勢13人の身内だけのささやかな法事でした。そんな中で、母の顔も知らない息子のお嫁さんが新たに加わったことに、月日の流れを感じました。
出席者は私達夫婦と娘(娘の夫は欠席)、息子夫婦、上の弟夫婦、下の弟一家に加えて、母とはかなり歳が離れた下の妹とその夫(叔母夫婦)でした。
これまでと変わらず、みんなが仲良くしているのを、母も喜んでいてくれるに違いありません。
それも、生前の母あってこそだと思いました。

私の部屋の勉強机の上には母の写真が置いてあるので、今でも毎日、その写真に向かって語りかけています。それでも、涙を流すことはなくなっていました。
母はもう目の前にはいないけれど、母に対する強い想いがあって、存在しない母と、心の深い場所に棲み続けている母との境界がはっきりしていません。
亡くなっているのに、生きている感じで、私と共に在るという感覚があるのです。

ところが、お寺でお坊さんの読経を聞くうちに、母は向こうの世界にいて、お経をあげてもらう側の人になっているのだと実感した途端に、在りし日の母の姿が次々に思い浮かび、涙ぐみそうになりました。
大人になってからもなお、私と弟達のことをいつも想ってくれて、まじめに一生懸命に生きた母の姿です。

場所を変えて行われた食事の席でも、たまにしか会えない2人の弟、叔母夫婦と、母だけでなく、父の思い出話にも花が咲き、会話の中で父と母が生き返った気がしました。
母を愛し、母のことを懐かしむ人達と、母のことを話せる時間を持てることは、私にとって温かく幸せなひと時です。
それは、まだ私が子どもだった頃の、父や母に守られて生活していた少女時代への郷愁も入っているからかもしれません。

次は13回忌、それまでの年月を、母を見習って、これまで通り、日々の生活を丁寧に積み上げていきたいと思いました。

亡き母に対する思いを言い当てている言葉があります。
詩人の長田弘さんの言葉です。

「死ではなく、その人がじぶんのなかにのこしていったたしかな記憶を、私は信じよう」

「先刻までいた。今はいない。ひとの一生はただそれだけだと思う。ここにいた。もうここにはいない」


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赤毛のアンと私、そして生涯の友 [アンのこと]

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(生徒Rちゃんが描いてくれた絵)


NHKの朝ドラの「花子とアン」が終わりました。ドラマを見ていて、「赤毛のアン」の翻訳者の村岡花子さんが、自身に似ているところのあるアンのことが気に入って、あんなに生き生きとした素晴らしい翻訳をしたことが想像できました。
私も少女時代に、アンに夢中になって、アンだけでなく、アンの娘のリラまで全て読んだ記憶があります。
アンの正直なところや、いつも心が動いていて好奇心でいっぱいのところ、ドラマにもあったように、「曲がり角の先にはきっといいことがある」と、時には不安におののきながらも、前向きに考えて、進んでいくところが好きでした。また、アンがいるだけで、周囲の人をやわらかく、幸せな気持ちにしてしまうところも、アンの魅力だと思っていました。
私の少女時代は、失敗したり、上手くいかないことがあっても、アンから勇気をもらったり、励まされたりして、気持ちを切り替えることが出来ていたように思います。

私もアンのようになりたいとずっと思っていました。その気持ちは大人になってからも変わらなくて、ブログのニックネームをアンにしたのもそのためです。

アンにはダイアナという親友がいましたが、私にも学生時代から何十年と付き合っている、“生涯の友”とも言うべき仲の良い友達がいます。

もう2週間ほど前になりますが、その友達2人と昼食を共にして、それぞれの事情でが会えなかった数ヶ月の積もる話があって、真夜中までおしゃべりしてしまい、その晩は友達の家に泊めてもらいました。

その時に、赤毛のアンの話も出ました。私は昔から赤毛のアンが好きだったので、その当時にも、赤毛のアンの話は当然していたと思っていたのですが、今回が初めてとのことでした。
その頃、友達2人も「赤毛のアン」は読んでいたらしいのですが、印象に残らなくスルーしてしまったということでした。仲の良い友達でも、感じ方は違っていたのだということが、不思議でもあり新鮮な気もしました。

今回、私が友達に聞いてもらいたかったのは、自宅を後にして、私の元に飛び込んで来た親戚になる予定の末期ガン患者のFさんのことでした。今年の3月の時点で余命1ヶ月と診断されていたのですが、7月中旬まで持ちこたえました。葬儀も私が執り行い、菩提寺のある故郷の県で8月末には49日もすませてきました。毎日の病院通いや、途中で退院を余儀なくされた時の老人ホーム探しと入居、その後の再入院など、諸々の段取りや準備に追われて、喜びをかみしめる間もなかったのですが、そんな中で息子の結婚式も敢行しました。

実は、Fさんの孫が息子の嫁で、生きている間に孫の花嫁姿を見せてあげたいと思ったからです。身内に縁の薄かったFさんの最後の時を、温かく、穏やかな時間にしたいという思いもありました。Fさんの孫(息子の嫁)はあまりにも若すぎて、Fさんの病気を受け止めることも、その時々の対処の仕方もわからなかったからです。
それ以上に、難病を抱える息子が結婚できたのは、Fさんとの天の配剤とも言えそうな巡り合わせ、Fさんからの若い二人への強力なサポートがあったからこそのことで、Fさんにはどれだけのことをしても、感謝し足りない思いもありました。

私だけでなく、2人の友達もそれぞれ話したいことが詰まっていました。
学生時代からずっと何でも言い合える友達ですが、振り返ってみれば、好きな異性や恋愛の悩み、結婚、夫への不満、子育ての苦労、その後も続く成人した子ども達の自立の難しさ、そして私たち自身の老後の身体的、経済的な不安など、人生の節目、節目で経験する様々な困難や、マイナス面を包み隠さずお互いに言い合ってきたように思います。それぞれの話を聞きながら、外から見れば恵まれているように見えても、思い通りにならない人生を何とかやっている、それならば私も、という気持ちになれたのだと思います。

私もすでに、アンというより、アンおばさん、それよりアンばあちゃんという方が合っているかもしれませんが、気持ちは年とらないと思っているので、赤毛のアンに憧れていた少女時代のままに、これからもアンのように前向きに過ごしていけたらと思っています。
生涯の友2人とも時を忘れておしゃべりに花を咲かせる、そんなひと時がこれからも末永く続けられたらそれで大満足です。
もちろん、ライフワークにもなっている「家庭塾」も、できる限り続けていきたいと思っています。

※上の絵は、現在通って来ている受験生のRちゃんが描いてくれたもので、とても気に入っています。



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本日、29日退院しました [アンのこと]



今年の1月にした手足の骨折の手術の際に入れた金具を外すための再手術で、近くのN病院に1週間ほど入院していたのですが、今日退院して来ました。
前回の入院の時には、全く歩けず、左手も使えずの状態で、考えることと言ったらトイレのことばかり、夜中になると、いつ看護士さんに来てもらったらいいかで悩んだりして、気分も最悪でした。

あれから10か月、週に2回の通院リハビリと、自宅での毎日1時間の自主トレの成果か、手足ともに7割方は回復してきたように思います。
若くない分、元通りの体に戻るのは無理とのことで、どこかで妥協しなければならないと思ってはいるのですが、今回の再手術で抜糸がすみ、2~3週間経った頃にはもう少し良くなっているのではないかと期待もしています。

今回の入院生活は快適でした。
何が良かったのかというと、病院の食事です。アンは食べ物には好き嫌いがある方なのですが、味付けがいいので食べられてしまうことも度々でした。
今回は動けたのでそこまでは感じませんでしたが、前回は、食べた後に細胞が活性化していくのがわかるほどでした。
「食は生なり」と言いますが、食事って本当に大事なんだ、と心から思いました。
しかも上げ膳据え膳なのですから、言うことはありません。
本来なら時間がありすぎて退屈するのかもしれませんが、病院の窓から外の景色を眺めたり、少し色づいた葉っぱに気づいたり、ゆったりした時間を過ごすのも新鮮でした。

先生も看護士さんたちもみなやさしくて親切でした。

また、今日から気分をリフレッシュして、生徒とともに受験その他に向けて頑張りたいと思います。

それにしても、N病院のレシピ本がほしいです。
退院の時のアンケートにも書いてきましたが、いつか発行してもらえないかとひそかに願っています。



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30万アクセスのお礼とアンの近況 [アンのこと]

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(友人、宮崎仁子さんからの絵手紙の絵です。)

つい先頃、ブログのアクセス数が30万を超えました。1ヶ月に1回更新できるか、できないかのブログなのに、折りに触れて繰り返し読んでくださる方々がいることが、ブログのアクセス解析から伝わってきて、それは喜ばしいことだと思っています。本当にありがとうございます。
一方で、ナイスもコメントも受けつけていない一方通行のブログなので、読者の方々には礼を欠いていると思いつつも、目の前の生徒や保護者、さらには指導が終了した生徒や保護者の相談にも応じるだけで精一杯の毎日なので、このスタンスで続けていかざるをえない状況です。
今後も不登校や学力不振の生徒及び保護者の方々に役立つ記事を載せるように心がけるつもりですので、引き続きお付き合いいただければと思います。

ところで、正月に左手首と左足のお皿を骨折したアンの近況ですが、リハビリ通院と毎日の自宅でのリハビリの成果からか、骨折当初の全く動けなかった状態に比べると、可動領域も広がってきています。
これまでは、ヘルパーさんに車椅子を押してもらって、片道30分ほどかかる隣の駅のリハビリ病院まで通っていましたが、来週あたりから、杖を使いながら電車に乗って一人で通うことにも挑戦しようと思っています。まだまだ片足をひきずりながらの歩行で、分速も44mほどで元気な時の70mにはとても及びませんが、今は元通りの体に戻ることを信じて頑張るつもりです。

そして、例年に比べて2か月近く遅れてしまいましたが、6月に入ったら、来年26年度のチャレンジ高校志望の受験生及び学力不振の生徒の新規募集をさせていただく予定です。
その節は改めてお知らせいたします。


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新年早々の災難 [アンのこと]

新しい年も明け、本来であれば新年に寄せての抱負でも述べたいところなのですが、新年早々転んで左足と左手首を骨折し、手術のために9日間も病院に入院する羽目になってしまいました。
チャレンジ高校の受験が近づいているのはもちろんのこと、その前に受け持っている大学生の後期試験対策もあって一時はどうなることかと思っていました。

それでも起きてしまったことに対しては、文句を言ったり、嘆いたりせずに受け入れるというのが、いつものアンのやり方なので、今回も、体は動かなくても気持ちだけは前向きでいたいと思いました。

リハビリも十分でないままに、半ば強引に先生に頼んで、17日に退院しました。
それからは、主婦が不在で汚れ放題の我が家に、生徒や時にはお母さま方も迎えて授業を再開しました。松葉杖を使って家の中は歩けるようにはなりましたは、けがをした左手は全く使えず、このブログも左手だけで打っている状態です。

お正月のいいニュースとしては、家庭塾を卒業した生徒たちがそれぞれの場所で、頑張って充実した生活を送っているということがわかったことです。
本来なら一番忙しいこの時期に、アンの方からはなかなか連絡が取れないのですが、入院中は時間があったために、アンの方から連絡してそれがわかったのです。
メールや電話から弾んだ感じが伝わってきてうれしくなりました。

今は何もできずに家族のお荷物になっていますが、それでもこれまで通り生徒が通ってきてくれて、受験という目的に向かって、生徒とともに努力できることは幸せなことだと思っています。

新年早々情けないご挨拶になってしまいましたが、今年もまたよろしくお願いします。



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母の三回忌を終えて [アンのこと]

自宅で私たち家族と一緒に住んでいた母が亡くなってから丸2年が経ち、先月三回忌も終わりました。それから間もなくしてお彼岸に入り、お墓参りもしました。
母の死から2年近くは、家族や友人たち、生徒たちに囲まれ充実した日々を送りながらも、寂しさや虚しさがいつも心の底にあって、母のいない人生が色あせて見えることも事実でした。
それだけ、私の中では母の存在は大きかったのだと思います。

ところが、3回忌を迎える頃から気持ちに変化が起きました。
それまでは、家にいても外出した時にでも、母の面影が目の前に大きく浮かんできて、それでも現実にはいないという寂しさに胸が塞がる思いだったのですが、いつの間にか、面影が小さくなって遠のいていき生身の人間としての母が消えていったのです。
お墓参りに行っても、そこに母がいるとは感じられずに、夢うつつに手を合わせていたのですが、今は、そこに母が安らかに眠っていると思えるようになりました。
やっと、母の死を受け入れられるようになったのかもしれません。

終の棲家になった私の家での3年弱の日々も、それ以前に介護のために実家に通い続けた歳月も、以前の母とは比べものにならないほど面倒で厄介な人になってしまって、その間のストレスも相当なものだったことは確かです。
亡くなった当時は、母のいいところばかりしか思い出されませんでしたが、今では冷静に振り返ることも出来るようになりました。
それでも10年近くの介護生活の中で私を苦しめた母の言動も、母の責任ではなく、人が年をとっていく過程で、どうすることも出来ないことだったのだと今になって気がつきました。
一緒に住むようになってからは、一日中、私の動向だけを気にして、あれこれ口を出してくる母に対し、きちんとやっているつもりなのに私を信用できないのかと腹を立てることもしばしばでした。それも信用できないのではなく、気になることを口にせずにはいられない、高齢者の特性だったのだと理解できるようになりました。

そうした晩年も含めて、やはり母は私にとってはかけがえのない、日本一の母だったと思います。
溢れるほどの愛情を注いでくれたことと、いつでもどんな時でも私を認めてくれたことが現在の私を作ってくれたように思います。
「よく、頑張るわね」が、母の私に対する口癖でした。

今後は、人生が色あせて見えるとか、虚しいとか甘えたことは言わずに、「母のいない人生」を、母がそうしたように、一日一日を丁寧に生きていこうと改めて思いました。
私が悲しまないことが、天国に行った母の望みでもあるでしょう。

以前より疲れが残るようになった私自身の体のことも、歳のせいにはしないで(体を労わりつつにはなると思いますが)、「まだまだ大丈夫!」とプラス思考で、必要だと思ってくださる方がいるかぎり頑張っていきたいと思っています。
ブログを読んでくださっている方々、現在、過去、そして未来の生徒や保護者の方々、今後ともよろしくお願いします。



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やさしい生徒たち [アンのこと]

私が関わった生徒たちはみな一様にやさしいのですが、母が亡くなって、その悲しみを生徒たちにそのまま伝えた時に、特にそれを感じて心が癒されました。そんな生徒たち(指導が終わって高校生になった生徒)の気持ちはブログに書きとめて、私の宝物としていつまでも残しておきたいと思いました。

Uちゃんからのメール

先生のお母さんは先生と暮らせて幸せだったと私は思います。
今は悲しみで満たされてる雨の天気ですが、また快晴の中の太陽みたいに明るく元気な先生になってくれることを信じています。
亡くなった人は二度と戻っては来ません。でも、その亡くなった人の為に、生きている私たちに何か出来ることがあればしてあげたいと私は思っています。
先生がずっと泣いていたらお母さんは心配して眠れないと思います。
お母さんの為に、私たち生きている人の為に、早く元気になってくださいね。

Aちゃんからのメール

まさかそんなことがあったとは思いませんでした。
先生とお母さんの一緒にいた時間はとても長いし、それがなくなってしまったら、とてもじゃないけど普通ではいられないです。
私には想像もつかないような悲しみの中にいるんだと思います。
なんだか、がきんちょのくせに偉そうなことをいっぱい言ってしまったような気もしますが…
ゆっくり休んでください。近々お家に行きたいです。何か色々持っていきます。

Ayuちゃんからのメール

先生にそんな出来事があったとは…正直驚きました。
私も、自分の事かのようにとても悲しい気持ちになりました。
本当に大切な人だったからこそ、なかなか受け入れられないですよね。
涙を流す先生の姿を想像しただけでも、悲しさが伝わってきます…。
こんな事を言っても、何の励ましにもならないかもしれませんが、正直な気持ちを言います。
先生がもし居なかったら、今の自分なんか居なかったと思います。
先生と出逢ってなかったら、私はこんな所に今頃立っていなかったです。
先生はそれを“自分の力”だと言ってくれましたが、私が迷ってしまった時、立ち止まってしまった時、いつもいつも先生が背中を押してくれました。
どんな私でもいつも温かく受け入れてくれて、見守っててくれました。
それがどんなに支えだったのか、本当に先生は私にとって大きな存在です。

高校へ頑張って通うことは、お父さんと先生との約束です。
だからどんなに辛くてもまた立ち上がって頑張っていきます。
また先生が元気になれたら、会ってお話しとかしたいです。

上記の3つもメールはどれも2ヶ月ほど前のものですが、改めて読み返してまた元気をもらいました。
無理に元気を出そうと思ってもだめで、元気になるにも時が必要なのだと思い知らされました。
そして、その時は人それぞれにやってくるものだと思います。


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浜崎あゆみのライブと森山良子のコンサート [アンのこと]


4月11日、「さようなら不登校」のAyuちゃんと“さいたまスーパーアリーナ”で開催された「浜崎あゆみのライブ」に行って来ました。
浜崎あゆみのライブに行くことは、あゆのファンであるAyuちゃんのかねてからの夢で、アンもその希望を叶えてあげたいと思っていました。
そのために、去年から動いてはいたのですが、チケットを手に入れるのも大変だということがわかり、その方面には慣れているアンの娘に協力してもらい、先行予約の抽選に申し込みました。

簡単には当たらないという予想に反して、抽選で当たったのは14枚。Ayuちゃんとアンの分を除いても、残り12枚を売りさばかなければならなくなりました。
半分の6枚は比較的簡単に買ってくれる人が見つかったのですが、残りの6枚は大変で、アンの娘はそのために多大なエネルギーを使ったうえに、ストレスまで抱え込むことになりました。
結果的には、公演日の前々日になってやっと全てのチケットの引き取り手と連絡がつき、事なきを得たのですが、忙しい仕事の合間を縫って協力してくれた娘には、感謝の気持ちよりも、「ごめんね」という思いを強く感じました。

そして、いよいよ浜崎あゆみのライブ当日になりました。
彼女については、年代的なこともあって興味や関心もなかったし、歌っている歌も知らなかったので、全く期待していませんでした。
そんな私とは対照的に、Ayuちゃんは、始まる前から「胸がドキドキする」と言って興奮していました。

開演した瞬間、場内が暗くなり、青いペンライトがいっせいに揺れ始めました。
それは私が見たこともない光景で、その美しさたるや夢の世界にいるようでした。
あゆの登場とともに1万6千人の聴衆全員が立ち上がり、手拍子を打ったり、体を左右に揺らしたりしてリズムを取り始めました。
それはオープニングの曲だけでなくて、2時間半にわたる公演の間ずっと続いていました。
アンもその中の一人として(後半は、座りましたが)、あゆの太くて張りのある声とダイナミックな動きに魅了されました。
そのうえに素晴らしかったのは、彼女と一緒に踊っていたダンサーたちの見事な踊りでした。
知らない曲ばかりなのに、飽きることなく聴き続けていられることが、不思議でもありました。
演出効果もあったと思いますが、それ以上に、ライブ独特と思われる熱狂の輪の中にアン自身も身を委ねることができたからだと思います。
とても楽しく、高揚感を持った心地よいひと時でした。
おそらく、Ayuちゃんの家庭教師をしていなければ、浜崎あゆみのライブに行くこともなかったでしょう。
このように、生徒はいつも私の好奇心を満たしてくれる何かを運んできてくれたり、楽しい気分にさせてくれます。
だから、アンはいつまでも若々しく(?)いられるのだと思います。

あゆのコンサートの翌日は、森山良子のコンサートに行きました。
毎年、必ず夫と行くコンサートで、もう20年以上になります。
母の介護は義妹が引き受けてくれました。
どういうわけか、浜崎あゆみのライブに比べると色あせて見えました。
ここ数年は、少々マンネリ気味で、去年あたりからもうそろそろ終わりにしようかという話はしていたのですが、あゆのライブと比べてみて、その感をいっそう強くしました。
なぜ楽しめなくなったかというと、アンの聞きたい曲ではなく、主催者側の聞かせたい曲ばかりが歌われていたからだと思います。
新しく出たCDの中に入っている曲ばかりで、馴染みもないし、営業的な臭いがして引いてしまうのです。
心に響く曲もありませんでした。
こんなふうに感じるのは聞く側のアンが変わったのか、それとも歌い手である森山良子の問題なのか、よくわかりません。
もちろん、抜群の歌唱力は変わりませんし、感動して聞かれた方も多かったと思います。
ただ、アンの感性には合わなくなってきたということだと思います。

それでは、これからは森山良子のコンサートはやめにして、浜崎あゆみのライブに行くかというと、そうはならないと思います。
今、一番行ってみたいのは竹内まりあなのですが、開催予定があるのかどうかも定かではないし、だとしたら、そろそろ歌ではなくて、落ち着いてクラシックを聴くのもいいかな、などと思ったりもしています。


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