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支配する愛 [アンおばさんの教育ミニコラム]

「家庭塾」に連絡してくる保護者の方々は、わが子の「する、しない」、「出来る、出来ない」だけを見て、子どもを評価する方はいなくて、「とにかく、学校にさえ行ってくれれば」、「普通になってくれれば」と願うに留まっています。

けれど、教育家族の親は反対で、多くは「出来るか、出来ないか」だけで子どもを判断し、出来が悪ければ非難したり、責め立てたりします。 偏差値の高い高校、大学に進学することが子どもの「幸せ」だと信じ、教育費に莫大なお金をつぎ込み、肉体的にも精神的にも子どもにかける労力を惜しまず、子どものために出来る限りの努力をします。

子ども自身も能力もやる気もあり、親子で考えが一致していて、共通の目標に向かって苦楽を共にすると、上手くいけば達成感も得られるし、家族の絆も深まり、未来も拓けるかと思います。
一方で、能力はともかくとして子どもにやる気がなく、親は頑張っているのに、子どもが期待に応えず、教育費ばかりがかさんで成果が得られないとなると、親は平静ではいられなくなります。
その場合でも、諦めることは出来ずに、子どもを勉強へと駆り立て、この時期さえ耐え抜けば、明るい未来が待っているはずと                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              信じて疑いません。
教育家族によく見られる例で、自分も親にそうやって育てられてきたから、「幸せ」は偏差値の高い学校に進学すること、一流会社に入り、豊かな生活を送ること、その価値観しかありません。
夫婦仲が悪く、愛のない冷たい家庭であっても、そこはあえて見ないようにして、豊かで贅沢な暮らしができればそれで良しとするのだと思います。

その種の親は、往々にして、子どもが言うことを聞かなかったり、思い通りにならなかったりすると、子どもに愛情を注げなくなります。 本来、親は子どもに見返りを求めるべきではないと思うのですが、「こんなに子どものためにしてやったのに何なの、この子は」とか、「裏切られた」と感じる親さえいます。

それは子どものためと言いながら、本当は自分のため、「子どもを支配する愛」と言えるのではないでしょうか。 それは愛とは言えないものですが、親は子どものためと思ってやっているのでそれを愛だと錯覚し、子ども自身もそれを親の愛だと信じているので逆らうことも出来ずに、親の期待に応えられなかった負い目もあって、青年期にさしかかる頃には、心を病んだり、引きこもりになる可能性もあります。
可能性ではなく、アンと親しい家庭教師の先生方の教え子にはそういう青年たちが少なからずいます。

最近、アンの知人の一人が「あんなに心配をかけておいて、あれほど尽くしてやったのに、恩を仇で返して。何なの。あの子は」と言って、子どもとの関係を断ってしまったという出来事がありました。
私は、「…のに」と思うことはやらないほうがいいと思っていますし、息子を亡くしたアンからしてみれば、親の意に沿わなくても、子どもが元気で幸せに暮らしていれば、それで十分という思いがあります。

「支配されている子ども」は、多くの場合、母親は否定したくても出来ない重すぎる存在です。 支配する親に育てられた子どもは、愛に飢え続け、自己肯定感を持てないまま、満たされない日々を送ることになります。
たとえどんなに子どもを愛していても、「支配する愛」が愛ではないことに、親も子どもも早く気づいて、関係を再構築してほしいと思います。
親も子も幸せにはなれないからです。



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