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叶井俊太郎さん死去のニュース [息子]

漫画家の倉田真由美さんの夫でプロデュ—サーの叶井俊太郎さんが亡くなったという記事をヤフーニュースで読みました。
漫画家もプロデュ—サーの名前も私は殆ど知りませんでしたが、叶井さんの記事は気になって読んでいました。
それは叶井さんが、1年8カ月ほど前にすい臓がんステージ4であることを知ったときからです。

アンの息子がすい臓がんで亡くなったのは、ちょうど叶井さんがガンを宣告された頃でした。
知り合いや、マスコミに登場する人がすい臓がんだと知ると、その度に心が騒ぎ、息子と同じ経過を辿って亡くなってしまうのだと思うとつらくなりました。

息子は幼い頃は手のかかる子どもで、成人してからは難病を2つも抱えながら生きていたので、母親としては心配が尽きませんでした。

けれど、年齢を重ねるにしたがって頼もしくなっていき、周囲から愛される信頼される大人になりました。
叶井さんと同じ、すい臓がんのステージ4と宣告された時も、「僕は負けない。嫁さんを一人残して逝けないから」と、きっぱりと言い切っていました。
そして、これまでも難病を抱えて生きてきたのだから、「これからも前に進むことだけを考えて生きていく」と言い、残された日々を精一杯生きることを自分に課していました。

仕事を続けることはできませんでしたが、勤めているお嫁さんに替わって、家事を一手に引き受け、特に料理は得意だったので、彼女の好きな献立を考え、お嫁さんのことだけを考えて頑張っていました。

不平やグチをいうこともなく、見舞いにきてくれる人たちにも常に笑顔を絶やさず、それまでと変わらず、前向きに生き続けました。
自分の一番の長所は「前向きなこと」と思っていたようですが、その通りでした。
息子の家は近かったので、毎日のように姿を見せていましたが、明るく、前向きな姿勢は崩さなかったので、私もどれだけ救われたかわかりません。

叶井さんと同じように、亡くなる10日ほど前までは比較的元気で、亡くなる数時間前にも遠方から見舞いに来てくれた友人とも楽しそうに話をし、それを自分で写真に収めていました。
容態が急変したのはその日の深夜のことで、帰らぬ人になりました。

最期の10日間ほどは、傍から見ていてもつらそうで、早く楽になってほしいと思ったことも正直な気持ちです。

最後まで前向きに、そして人を愛し、愛される人生であった息子のことを誇りに思い、息子が聞き取れたかどうかわかりませんが、「お母さんの子どもに生まれてきてくれてありがとう。〇〇のことを、おかあさんは誇りに思うよ」と心から言うことができました。

すい臓がんの最期はみな同じような経過をたどるのかもしれませんが、叶井さんの記事を読んで、息子の最後の日々がありありと思い出されました。

悲しみは永遠に消えないと思いますが、ここ半年ばかりは生徒の大学受験で紛れていた部分もあったのですが、それも終わりに近づいて、心に空いた穴を埋めるためにブログを書こうと思いました。

それでも私が沈み込んで暮らしていたら、息子が心配すると思うので、息子の言葉、「前に進むことだけを考えて生きていきたい」を支えに、気持ちを新たにしなければと思っています。



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悪夢の日々(2) [息子]


D病院に入院してから手術までの2週間は、相変わらずの点滴治療で、その時点で体重は以前の13キロ減、顔も二周りほど小さくなって、体もやせ細っていきました。
それでも、手術をすれば長年の苦しみから解放されると思い、息子は希望を持っていたようです。ところが、手術前に受けた担当医からの説明は、再び、息子と私を落ち込ませるものでした。
「食道アカラシア」という病気が食道の神経が消失してしまう病気であること、そのために食道から胃に食べ物を送る蠕動運動ができないこと、食道がんになる確率が通常の人より高いこと、食道を広げる手術をして呑み込みをよくすることは出来ても、消失してしまった神経は再生しないこと等を聞かされたからです。
それでも、よくなるために手術をするのは間違いないことなので、そこに望みをつなげるしかありませんでした。これまで苦しんできた胸痛が少しでも収まれば、それだけで息子はどんなに楽になるだろうとも思いました。
すでに、6月から治療を開始したもう一つの病気も抱えていたわけだし、それに加えて、10万人に1人とかいう病気を、よりによって2つも持ってしまうなんて、本人が一番つらいのはもちろんですが、それを傍で見ていなければならない私も平常心ではいられませんでした。

そんな中でも救いだったのは、息子が落ち込みはしたもののそれも一時のことで、前向きな姿勢を崩さなかったことです。
運良くD病院の先生に手術してもらえるようになったことも、支えてくれる両親がいることも、友人や会社の上司、同僚に恵まれたことも、姉(私の娘)がいろいろと手を貸してくれたことも、病気が治るまで会社が休職扱いにして給料をある程度保証してくれることも、仕事の合間に通っていた整体の学校が受講期間も無期限で延期してくれたことも、感謝の気持ちで受け止めることができました。

今、振り返ってみても、悪夢の日々だったと感じたのは、介護のために自宅に引き取った母の存在でした。
病気の息子に付き合うだけでも大変なのに、そこにもう一人の病人である母が加わって、心はパンク状態でした。
C病院へ入院する前もD病院へ入院してからも、母の体とは比べものにならないほど息子の体は悪かったのに、自分の方が大変という態度をとり、何ひとつ自分でやろうとせずに私に依存してくる母が疎ましくてたまりませんでした。
水も吐いてしまうほどの息子に向かって、「食べないでいいの」と言ったり、話しかけられるのもつらくていやなのに、「大丈夫」と何回も聞いたり、身体的にも精神的にも疲れきっている私に、「夕飯は間に合うの」「洗濯物は取り込まなくていいの」「明日の朝のパンはあるの」と相変わらず口うるさく干渉してくるので、怒鳴ってしまうほどもしばしばでした。
病気に加えて、母の存在が息子のストレスになっていることがわかっていたので、息子を守りたいという気持ちも強く働いていました。親よりやはりわが子です。
「母はうつ病なんだから仕方がない」と頭ではわかっていても、感情がついていきませんでした。それを抑え込んでいたら、私まで病気になってしまうと思いました。

9月に入ってすぐに息子の手術は無事に終わり、それから1週間ほどで退院することができました。
退院後は「流動食」と聞いていたので、母の別献立に加えて、息子の分まで別に作らなければならないと思うと気が重かったのですが、パサパサ系と極端に固いもの、刺激物を除いて、ほぼふつうのものが食べられました。
呑み込みもだいぶよくなりました。
問題は、まだ胸の痛みが週に何回か起こっていることと、もう一つの病気が原因で起こる痰のつかえも時々起こり、呼吸が苦しくなることです。
ステロイド剤の服用は最近になって減ってはきましたが、いつ仕事に復帰できるかはまだわかりません。
それでも今は、ドン底から少し這い出せたこと、悪夢の日々から解放されたことで、「ま、いいか」と思うしかないと思っています。

それに私には楽しみがあります。生徒やそのお母さん達と関わり続けていられることです。きついし、時には大変すぎると思うこともありますが、生徒にはやはり「ありがとう」です。生徒は私の元気の源だからです。


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悪夢の日々(1) [息子]

私は誰からみても「明るく元気」に見えるらしく、それは自分でも認めていたのですが、ここ4ヶ月間というもの、表面的には元気に見えても、気持ちの落ち込みはひどいものでした。
その原因となったのが息子の病気でした。

5月下旬のことでした。
明け方近くになって、息子が「助けて!痰が喉に詰まって呼吸が出来ない」と私の部屋に入って来たのです。息子のその声に最初に気づいたのは夫のほうでした。私は一度寝てしまったら、地震が起きても気づかないで寝ているタイプなので、すぐには息子の異変に気づかずにいたのです。
慌てて飛び起き、救急車を呼んで近くの病院に搬送してもらいました。息子がもともと持っていた難病が悪化し、呼吸困難になったことは診察を受ける前からわかっていました。
吸引しても痰を取り切ることができず、かといってこのまま放っておいたら、気管を切開するなど命にも関わることにもなりかねないので、これまで延ばしてきたステロイド剤の大量服用に踏み切ることにしました。
ステロイドはいろいろな病気に効力を発揮するけれど、それだけに副作用も強く、飲み始めたら仕事に行く事もできなくなるし、服用すれば必ず治るというものでもなかったために、それまで踏ん切りがつかなかったのです。

6月から勤め先の会社を休職し、ステロイド剤を服用しながらの自宅療養の生活が始まりました。
ところが、その効果が現れたかどうかもわからない7月の中旬頃になって、食べ物がほとんど喉を通らなくなり、食べられても逆流することが多くなっていきました。
もともと息子は中学生の時から、飲み込みが悪く、食事の時も水分をたくさん採ってそれで食べ物を流し込んでいるようなところがありました。また、時々、脂汗の出るような胸の痛みに襲われ、本人もそれを発作という言葉で呼んでいましたが、これまでどこの病院で検査してもらっても、異常は認められずに、「自律神経の病気でしょう」とか「気持ちの問題でしょう」とか言われるばかりで、原因を特定することはできずにいました。

それがわかったのは、難病治療を開始する際のことでした。B病院の呼吸器内科の先生がレントゲンを見て、「食道アカラシア」と言う、聞いたことがない病名を口にしたのです。
その時は、息子も私も「何、それ?」と思った程度で、難病を治すほうに気をとられていて、気になりながらも聞き流していました。

8月になってやっと、かかりつけのA病院で、申し込んでおいた消化器の検査を受けることができました。1週間後の検査結果を待っている間に、今度は水も吐くようになったので、大事をとって地元のC病院に入院し、点滴治療を始めてもらいました。1ヶ月の間に体重が7キロも減少し、見ていられなかったからです。
本当はA病院に入院したかったのですが、検査結果も出ていない段階で、しかも消化器内科については検査の時が初診だったので、受け入れてもらえるとは思えませんでした。
C病院では、最初から息子の病気は診ることができないと言われていました。点滴を受けるためだけに入院させてもらったのです。入院当日の夜には熱も39度も出ていて、それも心配でした。

入院3日目、禁食状態は続き相変わらずの点滴治療で、熱も下がりませんでしたが、C病院で外出許可を出してもらい、検査結果を聞くためにA病院に行きました。
結果は食道がひどく炎症を起こしていて、入院して様子を見ながら検査をしなければ、現時点ではわからないというものでした。
その時に、A病院の医師に言われた言葉は、今思い出しても腹が立つほどです。
「今は、ベッドがいっぱいで入院できません。38000円の部屋でも順番待ちですが、予約を入れておきますか」と言ったのです。
息子は何も食べられないふらふらの状態で、やっとのことでA病院に行ったのに、目の前の患者を見もしないで、入院費のことだけを事務的に告げるなんて、何なのかと思いました。
それでも息子の命には代えられないので「お願いします」と頭を下げるしかありませんでした。入院中のC病院も個室しか空いていなくて、差額ベッド代と点滴代だけでも1日に数万はかかっていたので、A病院に入院してその先どのくらいのお金が必要なのかと思うと、それだけで気持ちが暗くなりました。

それでも、息子と共にA病院を後にする頃には、A病院に入院するのはやめるという決断を下していました。B病院の先生は呼吸器内科の先生なのに、食道アカラシアと判断しているのに、消化器内科の先生がわからないなんておかしいと思ったからです。病名もわからないまま何日も入院して、法外の入院費を取られたのでは泣くに泣けません。
あちこちの病院を渡り歩くには、検査結果などの情報が一本化されないので、好ましいことではないとC病院の先生から注意を受けていましたが、私と息子は翌日ネットで調べておいた食道外科で定評あるD病院に向かいました。
振り返ってみれば、息子の難病治療も本当はA病院で受けていたのに、専門のB病院の先生に診てもらっていたのです。B病院はセカンドオピニオンしか受けつけないということでしたが、引き続き診てもらえたことは幸運だったと思っています。
医師達に何と言われようと、思われようと、またそれが世間の常識から外れていようと、私にとって大事なのは、息子の病気を何とか治してもらうこと、それしか考えられませんでした。

D病院で診察を受けた日は、たまたま食道外科の先生の診察日に当たっていて、その場で入院と手術日が決まりました。担当の先生が、息子の症状からほぼ「食道アカラシア」という病気に間違いないと判断したからです。水も吐くほどのひどいものはこれまでにあまり例がないとのことでした。
時々起こる胸の発作も「食道アカラシア」が原因であることがわかりました。
20年近く抱えていた病気の正体がやっとわかったのです。
A病院の先生には腹が立ちましたが、反対にD病院の先生は救いの神のように思えました。手術待ちの患者が全国に大勢いるとのことでしたが、そこに割り込ませてもらうことができたのです。


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息子の甘え [息子]

小学校時代は、いじめと学力不振で惨憺たる学校生活を送っていた息子も、中学1年で長野に山村留学をし、再び東京の中学に帰って来たときには、幼くて、物の道理がわからないのは相変わらずでしたが、明るく元気になっていました。
高校受験では、塾に通っても全く効果が上がらず、私がつきっきりで勉強を教えて、何とか第1希望の高校に合格しました。そこでいい友だちやいい先生に恵まれて、「高校デビュー」といえるほどの楽しい3年間を過ごすことができました。
続く3年間の専門学校生活は、進路の関係で自宅を出て、地方に行きましたが、勉強はともかくとして、自由な生活を享受していました。

ところが、就職してからが大変でした。専門学校の流れで入った農業関係の会社の仕事は息子に全く合わず、体を壊してやめることになってしまいました。
それからは、食の世界に方向転換して、働きながら調理師の資格も取りましたが、あまりの長時間労働に耐えることができませんでした。

母親としての私は、事あるごとに息子の相談に乗ったり励ましたり、また、ある時には経済制裁をしたり、突き放したりしてきました。
そして、3年ほど前、介護の仕事について、やっと自分の進むべき道を見つけました。
ところが、これで万々歳というわけにはいかなくて、高校に入った頃から、病気の問屋さんと言えるほど、体のあちこちに支障が出てきて、病院とは縁が切れない体になってしまいました。
最近、難病も宣告されてしまって、仕事の合間を縫って、整形外科、耳鼻科、呼吸器科、循環器科、皮膚科で、経過観察のために定期的に診察を受けています。
当初は、息子はもちろん、私もずいぶん落ち込みましたが、「来てしまったことは受けるしかない」と開き直って、前向きに生活しています。

前置きが長くなってしまいましたが、そんな折のことでした。
病院に行くのは、夜勤前か、夜勤あけかのどちらかなのですが、その日は夜勤前の病院通いでした。
朝の8時半頃、電車に乗って都内の大学病院に行きました。その時は、あまり時間のかからない呼吸器科の受診だったので、お昼頃には帰って来ると思っていました。
そしたら、お昼ご飯を食べて、2時間ほど寝て、仕事に行く3時ちょっと前に、また軽い食事を取ればいいと考え、私はその段取りで、2食分の食事の準備を進めていました。
布団も干して、取りこんで、クーラーで冷ましておきました。

私の予想に反して、息子が病院から帰って来たのは、2時45分でした。これでは寝ることはおろか、食事も掻き込んで食べるしかありません。
「夜勤の前に、病院でこんなに待たされたら、働きに行く前に疲れてしまうわよね」という言葉を呑みこみ、私は息子に食べさせることだけに神経を集中していました。
それでも気になって、「肺のレントゲンの結果はどうだったの」と尋ねると、息子は「次回でなければ、結果はわからないって」と答えました。
そこで、私が、「こんな忙しい思いをして病院に通うより、お母さんは、タバコをやめることの方がはるかに大事だと思うんだけどな。肺に異物ができているということは、爆弾を抱えているのと同じなんだからね」と言うと、「お母さん、それ以上言ったら、キレルからね」と返してきました。

「夜勤がある日は、自分自身jの仕事の段取りもつけながら、あなたの生活時間に合わせて、休みなく動いているのに、その自分勝手な言い草は何なの」と内心ではムッとしましたが、黙っていました。これからバイクで出勤する息子と言い争って、事故でも起こされたら大変だと思ったからです。
出掛ける直前、息子は私に頭を下げました。
「お母さん、ごめん。病院で待たされすぎて、イライラしてたんだ。お母さんしか、当たる相手がいなくて」
いい歳をして、息子はまだ私に甘えていると思いました。それでも、「まっ、いいか」と思えました。
親にとっては、幾つになっても子どもは子どもという思いもあります。

付け加えれば、息子ばかりでなく、夫も私に甘えているな、と思うことがあります。
ある無名の男性作家が「女より、実は男のほうが女々しいんですよ」と言っていましたが、真実かもしれないという気もします。



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