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「斉藤さん」 [アンおばさんの教育ミニコラム]

原作が漫画本だというテレビドラマ「斉藤さん(毎週水曜日、午後10時~日本テレビ)」を初回から見ています。
幼稚園に通う子どもを持つ斉藤さんは、相手が誰であっても、おかしいことはおかしい、間違っていることは間違っていると言えるお母さんです。

前回までの内容は、幼稚園に隣接する高校の生徒たちが、度々、園庭に物を投げ込んだり、落書きをしたり、園児たちにちょっかいを出すなどのいやがらせをしてきました。
そんな彼らに対して、斉藤さんは、毅然と注意をしてきました。

ところが、問題行動を起こす生徒のリーダの父親が市会議員であることや、注意をすると、かえって生徒たちをエスカレートさせて園児たちの身に危険が及ぶからという理由から、園長も園ママたちも、斉藤さんに「何もしないように」と迫ります。
見て見ぬふりをするように言うのです。
斉藤さんには、それが出来ません。
「悪いことをしたら謝る」のは、当たり前のことだと思っているからです。
また、子どもが悪いことをしたら、注意するのは大人の責任とも考えています。

昨夜の内容は、子どもたちの間でポータブルゲーム機が流行って、クラスで持っていないのは斉藤さんの子と、斉藤さんの考えに共感して、斉藤さんの友だちになった真野さんの子と、もう一人の子と、合わせて3人だけという設定からスタートしました。
「子どもの機嫌を取るのは簡単だし、楽だけど、私は買わない」と、斉藤さんは言いました。

若くて、まだ母親になって日も浅いというのに、斉藤さんのように信念をもって子育てが出来たとしたら、それはすばらしいことだと思います。
斉藤さんのようでありたいと思いながらその勇気も持てずに、かと言って、斉藤さんを目の敵にしている他の母親たちにも同調できずに、うじうじしてあれこれ悩む真野さんが、一般的な母親の姿なのではないかという気がしました。

それから、クラスの子どものゲーム機が盗まれて、斉藤さんの子が、盗んだ友だちをかばって、下駄箱にそっとゲーム機を置きました。
ここでも、園長や園ママたちは、ゲーム機は戻ってきたのだからそれでいいと、事をうやむやのうちに処理しようとします。
斉藤さんは反対します。
やはり、「悪いことをしたら、それを認めて謝る」ことは、子どもが大きかろうと、小さかろうと関係ないと言うのです。

私は斉藤さんの考えに賛成です。
自分の子どもが悪いことをして、それをなかったことにしてしまったら、子どもは何を判断基準にして生活していったらよいかわからなくなるでしょうし、どこかで親を信用できなくなると思うからです。
いいことと、悪いことの判断だけは、しっかりと伝えておきたいものです。

ところで、何が善で、何が悪なのかは、判断の分かれるところだと思います。
私は、自分の心と体を傷つけること、同じように他人の心と体を傷つけることも悪いことだと思っています。
ですから、「自分なんて、何をやってもだめだ」と思うことも、自分の心を傷つけていることになるので、できればしてほしくないと思っています。
みんなそれぞれに選ばれて生まれてきたのですから、生まれてきた時点でだめな人間なんて一人もいないと思うからです。



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不登校の子は元気? [アンおばさんの教育ミニコラム]

「不登校の子は元気」というのは、チャレンジ高校を目指して、「家庭塾」に通って来ている生徒が言った言葉です。
さらに、生徒は、「ふつうに学校に行っている生徒は、みんなと合わせなければならないので、元気がなくなるんです」と、説明も付け加えてくれました。

私は、“なるほどね”と感心しながら、おもしろい意見だと思いました。
学校に行っていても、いつも友達の顔色をうかがいながらびくびくしていたり、地のままの自分を出していたら、友だちに嫌われるのではないかと思って自分を抑え込んだり、したくもないのに自分を守るために誰かを馬鹿にして笑ったりしていたら、元気ではいられなくなるケースも十分にあり得ると思ったからです。
みんなと同じでなければいけない、目立ってはいけないと、子どもたちは身をもって感じているようです。
事実、私がこれまで関わった生徒の顔を思い浮かべてみても、学校に行っていても元気のない子は、少なからずいました。

そうは言いながら、「不登校の子は元気」だと、断定するわけにはいきません。
けれど、「不登校の子は元気がない」と、決めつけるのも間違いだと思います。
同じように、「不登校の子は暗い」と思うのも偏見だと思います。

「不登校の子は元気」と言っていた生徒は、「不登校の子は、暗いか、明るすぎるかなんですよね」と言いながら、「明るすぎても、浮いちゃってだめなんです」と、客観的な分析をしてくれました。

一般的に、「不登校の子は感受性が強くて、少しのことで傷つきやすい」とも言われています。
確かに、そういった面はあるかもしれません。だからと言って、ふつうに学校に行っている子が、みんな感受性が鈍いかというと、決してそうではありません。

私がここで言いたいのは、「不登校の子だから何々」「学校に行っている子だから大丈夫」というような、色分けや、線引きはしないほうがいいのではということです。
自分のことでも他人のことでも、決めつけてしまうと、そこで止まってしまって、前に進むことができなくなるからです。

以前も、それから今も、私が不登校の子どもたちに対して抱いているイメージがあります。
それは、不登校の子どもたちは、私にとってはおもしろい存在だということです。

去年、NHKテレビで、「爆笑問題のニッポンの教養」という番組を見ていたときに、精神科医の斉藤環さんとの話の中で、大田光さんが「ふつうの人は、外へ外へと向かっていくのだけど、不登校やひきこもりは、自分の内面へ内面へと向かっていって、ぼくは、むしろ内面の方が広がりが無限のような気がする」といったようなことを話していましたが、それに通じるおもしろさです。

自分の内面ばかりをあまり見つめ続けていると、わけがわからなくなって苦しくなってしまうことはありますが、外にばかり、モノにばかり向いている人に、私は魅力を感じませんし、話していてもおもしろいとは思いません。(たまになら、いいかもしれませんが……)
感受性が強いというのも、好き嫌いがはっきりしているということなので、メリハリがあって会話も弾みます。

内面を深く見つめる子どもは、また、自分の考えを持っています。
「どう思う」の問いに、自分の言葉で答えることができます。
ですから、話していても、おもしろいし、楽しいのです。

今日はじめて、「家庭塾」に来ている生徒のことを書きました。
これまで、生徒が自分のことを書かれるのはいやなのではないかと思って、なるべく書かないようにしたり、書いても、ぼかしたり、状況を変えて書いていたのですが、「元気な不登校の生徒」が、書いてもいいいと言ってくれたのです。
ちなみに、彼の性格は、「明るすぎる」のではなくて、「明るい」だそうです。



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暴れん坊ママ [アンおばさんの教育ミニコラム]

秋に始まったドラマの中でも、毎朝欠かさずに見ているのが、NHKの「ちりとてちん」ですが、もう一つ楽しみにしているドラマがあります。
それが、毎週火曜日の午後9時にフジテレビで放映される「暴れん坊ママ」です。

このドラマの脚本家が私の好きな大石静さんだったので、最初から期待はしていたのですが、思っていた以上におもしろくて、毎回必ず見るようにしています。

明るくて活きのいいホームコメディーなので、それだけでも十分に楽しめるのですが、何かしら考えさせられるものが含まれていて、それが押しつけがましくないところにも好感が持てます。

前回も、今回も、上戸彩ちゃん扮する「暴れん坊ママ」の ‘あゆ’と、パパ役の大泉洋さんの‘哲’夫婦が、子どもの‘佑樹’を、挨拶の出来る子にしようと苦心する場面があったのですが、見ていてホロリとさせられました。

朝、あゆの父親にトイレを占領されたことが原因で、幼稚園でウンチを漏らしてしまった佑樹が、園児からからかわれたことでプライドを傷つけられ、怒ったはずみで相手にけがをさせてしまうという事件が起こりました。
あゆは、からかった相手が悪いのだから謝る必要はないと言いますが、トイレを占領してしまったことを佑樹に素直にわびるあゆの父親の態度を見て、佑樹は自分から進んで「ごめんなさい」と友だちに謝ります。

「しつけ」という言葉には、親が自分の思い通りに子どもを動かす意味合いが感じられて、私はあまり好きではないのですが、あゆ夫婦からは「ちゃんとしつけなければ」、「しつけてやろう」という気負いが感じられませんでした。

「こんにちは」「さようなら」「行ってきます」「いただきます」「ごちそうさま」などの挨拶言葉はもちろんのこと、「ありがとう」「ごめんなさい」「よろしくお願いします」などの言葉は礼儀の面からも大切だと思います。
けれど、これは親が強制して子どもに覚えさせるものではなくて、あゆ夫婦のように、親が家庭の中で、または他人に対してもそのような態度で接していれば、子どもはしぜんに真似をして、黙っていても出来るようになります。

このドラマで、私が一番いいと思うのは、他人と自分を比較しないあゆの性格です。
佑樹の通う幼稚園は、山の手にある幼稚園なので、園ママたちが見栄を張り合ったり、生活レベルを競い合ったりしています。
そんな中で、あゆは佑機のママハハとして精一杯の子育てをしながら、園ママたちに対してはいつでもストレートでマイペース、他人を羨むことも、自分を卑下することこともありません。

この園ママたちの姿は、テレビの中だけの話ではなく、現実のママ社会をそのまま映し出しているようで、リアルに感じられました。
昨夜の内容には、「見た!園ママ社会のウソ」というタイトルがついていました。
ファッション雑誌に載ったことで他の園ママたちの羨望と嫉妬の対象になって、いい気になっていたある母親が、夫の職業を偽っていたり、ブランド品を身につけるために夜のパート勤めをしていたことが、女王的存在の園ママによって暴かれ、しっぺ返しを受けることになります。

この母親は、夫の職業や生活水準を他人と比較することの愚かしさをわかっていながら、それでも物質的に豊かな人が羨ましくてたまらないと、あゆに向かって言います。
子どものために、ブランド幼稚園に通わせ、子どものために母親自身も着飾っていなければならないと言いながら、実は母親自身の見栄のためだということは、母親本人も自覚していました。

この母親を愚かだと決めつけることは、私には出来ません。
今は、多くの母親たちが、自分や子どもを人並み以上にすることに、興味や関心が向いている時代だと思うからです。
バブルが崩壊して、「金、モノからこころの時代に」と言われるようになって、かれこれ15年以上の月日が流れているのに、相変わらず日本では、お金がある人やモノをたくさん持っている人がもてはやされています。
特に、娘時代にバブルの恩恵を十分に受けていて、現在子育ての渦中にあるお母さんたちは、ドラマの中の母親のように、頭ではわかっていても、なかなか発想の転換をするのがむずかしいように思えます。

それでも、昨日のドラマのように、ハイキング途中で姿が見えなくなってしまった佑樹をあゆが必死で探して、不安と心細さでいっぱいだった佑樹があゆを発見して、あゆの胸に飛び込んで行くシーンなどを見ていると、大切なものは何なのか、しあわせとは何なのかを考えさせられてしまいます。

あゆにとって大切なのは、夫の哲ちゃんであり、ママ子の佑樹であり、男手一つで愛情いっぱいに育ててくれた父親であるに違いありません。
また、ウソをついていた園ママに対して他の園ママたちは容赦しませんが、あゆだけは彼女のことを心配します。他人の痛みがわかるあゆをステキだと思いました。
鼻っぱしは強いし、言葉もきれいとは言えないけど、見栄や世間体には関係なく、ウソのないあゆだからこそ、これから先も佑樹から信頼されるママハハになっていくことでしょう。

今のように競争社会が激化している世の中では、他人と比較しないで子育てをすることは大変だと思います。その中で、母親自身が姿・形の見えないものに追い立てられ、孤立感を募らせていくことも容易に想像できます。
「暴れん坊ママ」の確かな制作意図はわかりませんが、私には、子育てで四苦八苦しているお母さん方への応援も含まれているように思えます。
彩ちゃんママからパワーをたくさんもらえるといいですね。


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ちりとてちん [アンおばさんの教育ミニコラム]

NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」を見ていますか。
今回の主人公の喜代美は、明るく前向きなヒロインではなくて、何の取り得もない自分に劣等感をもっている少女です。
がんばっていないわけではないのですが、不器用なために、同姓同名で優等生の清海には何をやってもかなわず、清海の引き立て役にしかなれません。
小学校から高校卒業まで、主役はいつも清海で、喜代美はわき役にしかなれませんでした。学園祭で、照明係りとして、清海にスポットライトを当てたのも喜代美でした。

そんな喜代美が高校を卒業して、推薦で安易に決まった短大に進もうとしたときに、このままの自分ではいたくないと思いました。
「このままではいけない。何かしなければいけない。変わらなければいけない」という思いが、心の底から湧き上がってくるのです。

友だちに言われた言葉も、喜代美の胸に残ります。
誰かのわき役かもしれないけど、自分の人生の主役は自分であるべきだと。
亡くなった祖父の言葉も思い出します。
一生懸命生きていたら、悩んだことも、苦しんだことも、すべてが一緒になって、美しい花を咲かせられると。(セリフはよく覚えていませんが、趣旨はこんな感じでした)

喜代美は、くよくよ悩んだままこの先も生きていきたくない、後悔ばかりしていたくないと、両親に訴え、自分の人生の主役になるために家を出て行こうとします。
喜代美はまだやりたいことが見つかっていません。自分が何をやりたいのか、どこに向かって進んで行ったらいいのかもわかっていません。

今は、喜代美にかぎらず、若者も大人も生き方に迷う時代だと思います。
それでも、喜代美のように、「今の自分ではいやだ。自分を変えたい」と思うのは、若さの特権だという気がします。時間もエネルギーもたくさんあるし、測り知れない可能性を秘めているのですから。
「今の自分」に満足してしまったら、成長もないし、一生懸命に生きることの大変さも、そこからしか得られないと思われる喜びも味わうことが出来ません。
一生懸命生きることは楽ではないし、何度も壁にぶつかって投げ出してしまいたくなることもあるかもしれませんが、その中にこそ楽しみも喜びもあるのだということは、努力してみてわかることです。

中には、努力の意味を履き違えている人がいます。
以前、知人が働いていた一流企業で、社員が派遣社員たちに「僕は、生まれてから22年間も努力して社員になったんだよ」と、涼しい顔をして言ったそうです。
22年間というのは、幼児期から大学を卒業するまで、遊ぶことを我慢して、ずっと勉強してきたということです。
もっとも、今の世の中では、楽をするために、世間体のために、あるいは、お金持ちになることだけが目的で、子どもに勉強を強いる親も多いのかもしれません。
それって、どうなのかなと思います。人それぞれ価値観は違うので、それはそれとして認めるしかありませんが……。

放送大学の「発達心理学」でも学びましたが、子どもだけでなく、大人も、老人になってからでも、人間はいくつになっても成長するようです。
成長をやめた時が、老いるということなのかもしれません。
22年の努力(?)で満足してしまった人は、若くして老いてしまったということなのでしょうか。
私はもう若くはありませんが、「今の自分」から「なりたい自分」に、まだまだ自分を変えていく努力をしたいと思っています。



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完璧な母、完璧な子ども、完璧な先生 [アンおばさんの教育ミニコラム]

昨日の朝日新聞に、「子育て支援に暗雲」というタイトルで、母親が「完璧な母」を意識して孤立感を深めているという記事が載っていました。男性は外で働き、女性は家庭で家事をしながら子どもを育てるという「伝統的家族観」を重視する安部政権のもとで、女性が身動きが取れなくなっているというのです。

今のように、ゆとりのない競争社会で、父親は長時間労働を余儀なくされ、母親は子育ての悩みを誰にも相談できずに、孤立感を深めているというのに、そこへもってきて、「親の子育て責任」を政府から強調されたら、母親は追い込まれるばかりです。
そうでなくても大変なのに、これ以上、完璧な母親なんて求められたら、どうしていいかわからない、という気持ちになると思います。
親の役割として規範意識を身につけさせること、食育の重要性などもあげられていましたが、安部総理の言う「美しい国」と同じように、うわべだけの飾り言葉に思えてなりません。
「いじめは悪いことだから、やめるように」と親から言われたら、子どものいじめがなくなる、と信じているような発想です。

完璧な母親ばかりでなく、完璧な子どもも求められているように感じています。
小学生はともかくとして、中学生になると大部分の学校で、部活が義務づけられていて、子どもたちは文武両道を要求されているからです。
私立の中学はそうでもないと思っていましたが、「帰宅部」というのはごくわずかで、評価されないという話も聞きました。
スポーツが好きで、自分から進んで入った部活ならともかく、義務感で入った部活で、しかも、そこにいじめなどがあったら、子どもはつらく感じるばかりです。顧問の先生が熱心だと、土曜も日曜もなくて、子どもは疲れ切っています。
中には、勉強もスポーツも頑張っている生徒もいるでしょうが、それは心も体も強くて、根性のある子どもです。いろいろな子どもたちがいるのに、一律に「完璧な子」を求めるのはどうかと思います。
私の「家庭塾」にやって来る生徒を見るにつけ、行き過ぎた部活に対して腹立たしい気持ちでいっぱいになりました。

教師にも、完璧さが求められています。
今年の、ある国立大学教育学部の小論文の問題にもはっきりとその傾向が現れていました。
国は、スーパーマンの先生を要求していると感じました。
全知全能の神様のような先生です。嘘っぽいと思いました。
完璧な先生でなくても、生徒の痛みがわかる先生、工夫して生徒を引きつける授業をする先生、それだけでも十分だと思っています。

記事の中では、カナダ生まれの親支援プログラム「完璧な親なんていない」が紹介されていたり、「仕方ない」「その時になったら考えよう」という『「まっ、いいか」と言える子育てをしよう』という本も紹介されていました。

完璧を求める社会は、窮屈で楽しくありません。
本の中にも書いてあるようですが、まじめなお母さんにこそ、意識的に「時にはチャランポランでもいいんだ」「いい加減でもいいんだ」と、思ってほしいと思いました。
完璧な母親なんてどこにもいないし、子育てで真剣に悩んでいるお母さんたちは、それだけでいいお母さんだと、私は思っています。
子どもだってそうです。成功体験は役に立ちません。「まっ、いいか」の精神で、気楽に失敗して、何回でもやり直せばいいのだと思います。



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自閉症の講演会 [アンおばさんの教育ミニコラム]

講演会やシンポジウムからはしばらく遠ざかっていたのですが、久し振りに、「日本子どもソーシャルワーク協会」が主催する「自閉症論の原点」という話を聞いてきました。

不登校の生徒やひきこもりの若者の中に、高機能自閉症(自閉症のうち、知能が平均か平均以上の場合をさす)、あるいはアスペルガー症候群が含まれていることを聞いていたからです。

自閉症が、①人と気持ちを共有できない、相手の気持ちがわからないなど対人関係に障害があること、②言葉を一方的に使い、相手に合わせた会話ができずに、同じ言葉の繰り返しが多く見られるというコミュニケーションの障害であること、③興味や活動が限定的で反復を好む、というおおよそ3つの特徴があり、それが3歳以前から現れていたら「自閉症」と診断されることは知っていました。けれど、別の角度からの話が聞けるのではないかと思ったことが、講演会に出かけた理由でした。

協会では毎年、「不登校・ひきこもり」に関するシンポジウムも開催していますが、そのスタンスに共感できる部分がたくさんあって、自閉症と犯罪少年とを短絡的に結びつけて考える社会とは一線を画した話が聞けると思ったからです。

「不登校・ひきこもり」については、今の子どもの置かれている状況や、その背景にある社会のさまざまな問題には目を向けずに、「学校に行っていない」、「働いていない」、「親に甘えて生活している」という表面的な部分だけを見て、彼らを問題視する社会の風潮に疑問を投げかけています。
講師とシンポジストは、「日本子どもソーシャルワーク協会」の理事長で、ソーシャルワーカーの寺出壽美子さん、児童精神科医の高岡健さん、社会評論家の芹沢俊介さんでした。

講演内容は想像どおり、私が聞きたかった共感のもてる内容でした。
少年が事件を起こして、たまたまその少年が高機能自閉症やアスペルガー症候群だったりすると、障害名だけが取り上げられて、障害ゆえの生きづらさを抱えて生きてきた彼らをそこまで追い詰めたものは何だったのか、彼らに対する周囲のまなざしはどうだったのか、という視点が欠けていたのではないかという点を言及していました。

一番印象に残った内容は、“「自閉症」の人たちの方が人間存在の原点に近くて、むしろ一般人のほうが原点から遠ざかっている”という意見でした。さらに、「不登校やひきこもり」の子どもたちや若者と接していると、ほっとする、癒される、それは彼らがピュアだからという話も出ました。

私は、今の世の中は、自分のことしか考えない人たちが増えていると感じていますが、そういう人たちに合わせられないとしたら、「自閉症」や「不登校やひきこもり」はちっとも悪くないと思います。
むりやりに自分を殺して他人に合わせて生きるのではなく、自分に正直に、素直に生きているとも言えると思います。

医者ではなく教師によるラベリングで、自閉症の子どもたちが特別支援教育に組み込まれ、当事者である子どもや親が傷つけられることも、百害あって一理なしとということでした。

最後になりますが、「自閉症」の人たちに合う教育は、一般の人たちの教育にも役立つという考え方にも、わが意を得たりという思いで、大いに共感しました。自宅でやっている「家庭塾」も「不登校、学力不振の」とついてはいますが、実は、どの子どもたちの能力も引き出すことのできる教育だと信じているからです。
それは、「すること」「出来ること」だけを要求する教育ではなくて、子どもが今、ここに存在するという「ある」を出発点とする教育にも通じると思っているからです。



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アンおばさんの教育ミニコラム(1) [アンおばさんの教育ミニコラム]

しあわせな家族の情景

1ヶ月ほど前の土曜日の昼下がりのことでした。
私のウォーキングコースにもなっているお気に入りの公園で、ステキな家族に出会いました。

1周が500メートルある公園を歩き始めたときのことでした。4歳くらいの女の子があちらこちらに興味を示しながら、何かを見つけては立ち止まってしゃがみこみ、また歩き出すという行為を繰り返していました。
女の子の後ろを歩いていた母親が、「もう、○○ちゃんたら。ママは運動しようと思ってこの公園に来たのに、寄り道ばかりしてぇ」と、ちょっぴり困ったようにつぶやきました。
それでも母親が、女の子の行動を容認していることは、母親の笑顔からわかりました。
女の子は楽しそうに「寄り道ィ、寄り道ィ」と歌うように言いながら、土手の斜面を下りて行きます。
母親がまたその後を追いかけていきました。

さらに、私が5周目の中盤にさしかかったときのことでした。
土手を降りきったところを、父親が3歳くらいの女の子を肩車しながら歩いているのが目に入りました。
女の子が大きな声で言いました。
「パパはママのことを愛しているんだよ」
父親はそれには答えず、穏やかな表情を浮かべていました。
再び、女の子が、父親の後ろを歩いている女の人に向かって言いました。
「ママもパパのことを愛しているんだよ」
「うふふふ」と女の人が笑いました。

女の人は、女の子の知り合いのように見受けらました。
しかし、よく見ると、先刻の「寄り道」の母親に似ているようにも思えたのです。

私は、父親と女の人との関係が知りたいと思って、いつもは5周で終えるコースを、わざわざ6周して、それを確かめることにしました。

すると、今度はブランコのところに「寄り道」の母親と女の子、「肩車」の父親と女の子、それと小学2年くらいの男の子が集まっていました。
5人家族だということが、その様子からわかりました。

今でも私の心の中に残っている、しあわせな家族の情景です。
子どもの気持ちを安定させる一番の要因は、出来ることならば、夫婦の仲がよいことではないかと思いました。



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