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笑顔の行方(完) [笑顔の行方]

母の死


2ヶ月前の8月16日、母が亡くなりました。
87歳でした。
母と共に過ごした1000日間、生活の中心を占めていた母がもう家にいないという事実に胸が塞がれて、これまでブログに書く気にもなれずにいました。あまりにも突然であったことと、今日に続く明日が来ることを疑わずに、母の死など想像もできなかった私にはショックが大きすぎたのです。けれど、ここに来てやっと書き留めておかなければ何も始まらないという気持ちになってきました。

8月1日の午後11時のことでした。
夜中に、2階の自分の部屋から下りて来たことなどなかった母が、階段から転げ落ちてしまいました。ものすごい音に何事かと思い、家族がそれぞれの部屋から駆けつけた時には2、3分間意識はなかったものの、すぐに手を握り返すなどしっかりした反応を見せていました。救急車を呼んだことに対しても、「そんなオーバーなことをして」と非難めいた言葉を口にするほどだったので、この時点では、大したことはないと思っていました。最悪、寝たきりの状態になったとしても、やがては回復してわが家に戻って来ると信じて疑いませんでした。

ところが搬送先の新宿区内の病院では手に負えずに、板橋の帝京大病院に移送されることになりました。2日未明のことですが、この時点で今日、明日の命と宣告されました。
検査の結果、くも膜下出血、首の骨折、お腹からの大量出血、骨盤の骨折等々、どれを取っても致命的で助かったことが奇跡だとも説明されました。
集中治療室で初めて母に対面した時には、既に生命維持装置がつけられていて、私や2人の弟達家族の呼びかけにも反応することはありませんでした。

輸血しても輸血してもお腹からの出血がひどくて、血圧が50/60前後と低すぎたために、まず出血を止めるのが優先課題でした。止血のために開腹手術をすることになりましたが、高齢であることも加えて手術に耐えられるか危ぶまれる状態でした。
手術は無事に終わりましたが、止血のための手術はそれから10日足らずの間に3回も行われ、母はそれを乗り切ってくれました。
手術が終わる度ごとに、ずっと病院に詰めていた私の家族と弟達一家は束の間の喜びで胸をなでおろしましたが、医師の見立ては残酷なものでした。
止血はできても血圧が下がっていた時期に、脳に血液がいかなくなったために、脳は植物人間に近い状態だというのです。開腹手術の折に腸に大きなガンも見つかりましたが、そのことが問題にならないほど、母の全身に及んだケガはひどかったのです。
脳の機能低下と鎮静剤を投与しているために、患者本人の苦痛は抑えられているとの説明には救われましたが、呼吸は荒く、時に激しく痙攣する姿を目にすると、生きてほしいと願いながら、「もう、頑張らないでいいから」と語りかけずにはいられませんでした。
そして、8月16日午後2時16分、母は家族全員に看取られながらその生涯を閉じました。

母の記事のタイトルになった「笑顔の行方」のことですが、これを書き始めた頃にはすでに母の笑顔は戻っていたと思います。昔のように明るい笑顔ではなく、自信のなさそうな遠慮がちの笑顔ですが、わが家で暮らすようになってからは、どんよりした暗い顔を見せることもなくりました。
その一方で、毎日の介護に追われている私の方には笑顔がなくなって、母の顔を見たくもなくなった時期もありました。
母のことを大切に思っていても、毎日のこととなると、介護はきれい事だけではすまないという現実にも直面したのです。
けれど、今となっては母の意に沿った介護ができたこと、親孝行ができたことはよかったと思っています。娘として母の最期の日々を共に過ごせたことも幸せでした。

母が亡くなって気づいたことがあります。
私の家で暮らすようになってからは、私がいないと生きていけないというほどの母だったので、私自身も母を守って、支えて生活していると自負していました。
それは大間違いでした。
支えているつもりが支えられていたのだと、守っているつもりが守られていたのだと実感させられました。
母がいてくれたから、家事や塾や家庭教師の仕事、その他諸々の事で頑張れたのだと思いました。大変だったからこそエネルギーも出たのだと思います。
半分は仕事に復帰できても、体の不調を繰り返す息子のことを母が言葉には出さなくても心配してくれたことも、思い返してみれば慰めになっていました。

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晩年は感情が乏しくなり、何事にも意欲をなくしていた母ですが、その一生は娘の私からみても立派なものでした。
父が交通事故で亡くなって、この9月で50回忌を迎えましたが、私達一家と弟2人の家族がそれぞれ仲良く暮らせる土台を作ってくれたのは母です。
6年前に、母に頼み込んで書いてもらった自分史「我が子とともに」を自費出版しましたが、まさに母の一生は私達姉弟3人のためのものでした。無理をしていたわけではなく、そうしたかったからしたのであって、それが母の生き方だったのだと思います。
弟が葬儀の席で言った言葉も残っています。
「母の遺影を探してアルバムを見ていたら、どれもその時々をまじめに一生懸命に生きてきた母の姿が浮かび上がってきました」

『「生き方」は「逝き方」、人は得てして生き様を凝縮するように亡くなる時を迎える』とは、新聞で読んだ医師の言葉ですが、その言葉どおりの母の「逝き方」だったと思います。
最後の最後になって、昔ながらの頑張りを見せてくれたからです。
医師も驚いていましたが、4回もの手術に耐えられたのは、母の生をあきらめない強い意志の現れだったのだと思います。
自分が階段から落ちたことも認識していなかったくらいですから、まして自分が死ぬなど夢にも思っていなかったでしょう。まだまだ私と一緒に生活したかったのだと思います。
それでも遺された私達は母の「生き方」と「逝き方」を心に刻み付け、母の人生をいとおしく思いながらこれからも生きていきたいと思っています。


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