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笑顔の行方(7) [笑顔の行方]

受け入れるということ

実家の母が我が家で暮らすようになってから、まもなく1年近くになります。
先月末には、弟一家と暮らすつもりで建てた家も完成し、弟一家は仮住まいの家から新居に引っ越しをしました。
もちろん、仮住まいの家やコンテナに置いてあった母の家財道具一式も新居に運ばれ、あとは母がそこに戻れば、バリアフリーの住まいでの快適な生活が待っているはずでした。

ところが、以前にも書いたように、母はもうそこには戻りません。
自分でも資金を出して建てた新居なのに、住むどころか、見に行くことさえ出来るかどうかわからない状況です。
行ってみたい気持ちはあるようですが、我が家から車で往復2時間かかるその距離を、体(腰)が持ちこたえられかどうか自信がないのです。

この5月の連休明けにはぎっくり腰になって、トイレで用だけは足せたものの、それから2ヶ月間は、お風呂に入ることも、階下に降りてくることも出来ませんでした。
これまでなら入院ということになったのでしょうが、今は私が介護出来るので、それは避けることが出来たのです。

現在の母はというと、外見的には元通りに回復して、元気に暮らしています。
週に2回、入浴介助に来てくれるヘルパーさんも、浴室でもしっかりしていると言うし、時々訪れる2組の弟夫婦も「元気そうだね」と言って帰って行きます。

ところが母は、「元気そう」と言われるのは不本意のようで、うつ病もほとんど治っているようなのに、かかりつけ医や薬剤師に何回言われても、抗うつ薬や睡眠薬の量を減らそうとはしません。

今日の本題は「受け入れる」ということですが、母が元気になったのは、私達家族が母を受け入れたからだと思っています。
ところが、昔とは人格まで変わってしまったかのように思える母を、そのままの形で受け入れることはかなり大変なことです。
受け入れようとすればするほど、こちらのストレスも大きくなっていくからです。

365日休みがないのも、どこに出掛けるにしても三度の食事の用意は欠かせないことも、歯が悪いだけでなく食べ物の好みも偏っているので、店屋物や市販の惣菜では食べられないというのも、大変なところです。
それでも母は腰が悪いわけだし、私が自分自身の体を使って介護することは何ということはありません。(多少、やせ我慢も入っていますが…)
日常でストレスを感じるのは、電話やチャイムが鳴る度に2階から下りて来て、「誰からだったの?」と聞かれたり、介護の仕事をしている息子の出勤時間をその都度質問されたり、通常母のために別の献立で作っているのに、揚げ物などをしているのを見ると「私の分は?」と聞いてくることです。
多くの場合は母に関係がないことで、いちいち説明するのも面倒なのですが、狭い世界で生きている母にはそれしか関心事がないのだと思い、相手をしています。
また、うるさいほどに元気だというのも、考えようによってはいいことだと思っています。
母がうるさくなくなったら、それこそ体がそれだけ弱っているということだからです。

そんな生活の中で、どうしても母を受け入れられないことがあります。
それは、身体だけでなく私の精神の自由も奪うことです。
日中時間が空いて私がパソコンに向かっている時、極々稀に友達と電話で話している時、最近読んでいて楽しくなってきた英語の本を読んでいる時など、私が自分自身の時間を楽しんでいる時に、必ずと言っていいほど、母は邪魔しに来ます。
「天気が悪くなってきたけど、洗濯物は取り入れなくていいの」
「お風呂の窓は閉めたの」
「明日のパンは買ってあるの」
「(夜勤の時も自分で起きるてくる息子について)○○君は起こさないでいいの」(先回りして起こすことは、息子を不機嫌にさせるだけなのです…)
「6時になるけど、食事の支度をしないで、まだパソコンの前に座っていていいの」
これらの言葉を、2階から何度も何度も下りて来て私に言うのです。
30年以上、主婦をしている私にはそれらの言葉は言われたくない言葉です。

どうやら、私が何かに熱中していると、自分が疎外されているようで落ち着かなくなるらしいのです。
それを本人に伝えたら、母自身も認めていました。
けれど私はといえば、これまでのように夫と一緒に出歩くことも、友達と映画に行くことも、親しい仲間内での誘いもほとんど断っています。
唯一、仕事で出掛ける時だけはあきらめているようですが、私が外出することを母が極端にいやがるからです。
それを押して出掛けようとしても、行く前に何度も何度も不安ばかりを口にされると、外出したい気持ちが萎えてしまうということもあります。
そういう訳で、私が母を受け入れ、母に合わせている部分がかなり多いと思っています。
だから、せめて、日中に時間が空いた時くらいは好きにさせてというのが母に対しての本音です。
私の精神の自由までも束縛しようとする母を、容易に受け入れることは出来ません。

けれど、それで、私が母を受け入れていないかというと、そうではないと思っています。私なりの解釈になりますが、「その人のそのままを受け入れる」ということは、人格をもった相手をそのまま受け入れるということで、言動の全てを受け入れるということではない気がします。
もし、ここで私が、精神の自由さえも束縛する母のことも認めて、母の言いなりになってしまったら、私が私でいられなくなるし、ストレスから心の病気になってしまうことだって考えられます。

ですから、私はその度ごとに、「やってほしいことがあるなら何でもするし、介護については何とも思ってないけど、精神の自由だけは奪わないで!」ときつく言います。
母がまだ実家にいた時に、「今は1週間に1回来るだけだからやさしくできるけど、万が一、これが毎日となったらそうはいかないからね」と話したことがありました。
その万が一が現実になってしまいましたが、私は大方は母にやさしく接しているつもりです。
そのことについては一度、母に尋ねたことがありました。
それに対して、母は「この家ではすごく大切にしてもらっている。時々あなたに怒鳴られながらもね」と笑いながら答えていました。

私は、夜寝る時にはいつも、母の部屋をそっとのぞいて、寝息を確認してから休むことにしています。
昼間はちょっときついと感じることがあっても、母の安らかな寝顔を見るとそれで安心して、その寝顔がいつまでも見られることを願っています。

繰り返しになりますが、「受け入れる」ということは、相手の言動に受け入れられない部分があることを自分でも認めながら、それでも相手を大切に思ったり、愛しく思ったりすることではないかと思います。
相手の全てを受け入れていたら、受け入れる側は苦しくなってしまうばかりです。
(今回のブログはちょっとグチっぽくなってしまいました[ふらふら]


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