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困った子は困っている子 [私が読んだ本]

日々、子どもと関わっている学校の先生の本を読んで、これほど温かく満ち足りた感情が湧き上がってきたことはありません。こんなにすばらしい先生たちが、実際にいたのかと思うとうれしくなって、「日本の教育も捨てたものではないな」と明るい気持ちになりました。

いじめで子どもが自殺しても、不登校で苦しんでいる子どもがいても、マスコミ報道を見るかぎりでは、学校関係者は責任のなすりあいをするだけで、「つらかったね」「何も力になれないでごめんね」と、当事者である子どもを思いやる姿を見せていませんでした。そのことに私は、強い憤りを感じていたからです。

この本には4人の先生が登場しますが、こんな先生が学校に1人でもいてくれたら、いじめも不登校もなくなるし、子どもだけでなく、子育てに悩むお母さんたちも救われるに違いないと思いました。温かくて、人としての器が大きくて、指導力のある先生たちです。

先生たちが子どもに向かう姿勢は、本のタイトルにあるように「困った子」を「困っている子」として捉えるという見方です。
落ち着いて授業を受けられない子、問題行動を起こす子、不登校の子、学力不振の子等は、先生にとっては「困った子」と考えられてきました。
それに反して、「困る子」「困った子」を、その子自身が「困っている子」として見るという「子ども観」の転換を行います。
「困った子」を「困っている子」と捉えることで、子どもに対する接し方が大きく変わっていきました。子どもに向かうまなざしはあたたかくなり、子どもの生きづらさや苦しみに深い共感を持つようになって、しぜんに子どもに寄り添えることができるようになりました。(もっとも、この先生たちは発想の転換などしなくても、もともとそういう感性を持っていたような気がしますが)

副題には、『「軽度発達障害」(LD、ADHD、高機能自閉症、アスペルガー症候群)の子どもと学級、学校づくり』とありましたが、先生たちは通常の学級で、彼らにレッテルを貼ることなく、学級という集団の中で彼らの居場所と出番を作ることに心を砕きます。

「軽度発達障害」をどう見るか、という部分には以下のことが書いてありました。
(「軽度発達障害」というと、「軽いもの」と見られがちですが、決してそうではありません。子どもたちは、わかってもらえない、理解してもらえない苦しさ、つらさをかかえて過ごしています。「できない」ことを「できるはず」と見られ、「なぜあなたはできないのか」と否定的評価を繰り返し受け、自尊感情や自己肯定感を低めてしまっているのです。「自分なんて」「どうせだめなんだ」「いなけりゃいい」と口癖のように言います。………
まわりの子どもや大人たち、教師からも親からでさえも、理解されずにいる場合があります。そんな子ども達は自分が自分を理解できずに苦しみます。そんな中では、キレたり、パニックを起こしたりするしかないのです。)

先生たちとの関わりの中で、子どもたちが「だめだと思っていた自分」から「友だちからも認められる自分」に変身していく過程は、どのエピソードをとっても感動的で、胸がいっぱいになりました。
ADHD,高機能自閉症が疑われる小学1年のユウタと、先生の人間性が感じられる一場面を書き出してみます。
(「先生、また明日会おうね、さようなら」ユウタはそういって、手を振って歩きだした。が、すぐに立ち止まり、振り返って「先生、また明日会おうね、さようなら」と言って手を振った。また少し歩いては立ち止まり、振り返った。ユウタは何度も何度も同じことを繰り返しながら帰っていった。
私は彼と出会って初めて胸が熱くなった。ユウタの認められたい思いを痛いほど感じた。私はユウタを心底からかわいいと思った。この子といっしょにやっていこう、そう思った。)

この本を読んで、競争や管理で子どもたちを縛りつけるより、「困った子は困っている子」という子供観の転換が、教育関係者や親たち、大人たち、さらには子どもたちにまで広く浸透することが求められていると思いました。また、そうなってほしいと願わずにはいられませんでした。

実は、私は、この本の編著者で元小学校教諭の『大和久 勝』さんの講演会にも、つい最近のことですが行ってきました。不登校の子どもをもつお母さんたちにも、聞いていただきたかった内容なので、次回にでも紹介したいと思っています。



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